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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    四 海運業の消長
      北前船の隆盛
 幕末の開港後、欧米諸国の海運会社は日本の沿岸航路にも進出し、開港場間で大量の物資を輸送するようになり、国内海運業に影響を及ぼすこととなった。こうした状況のなか、明治政府は外国船進出の防止をはかるとともに、自国の海運業の育成を積極的にすすめた。まず、民間に蒸気船や西洋形帆船の導入を奨励し、船舶の近代化をはかった。また、政府自らそれらを導入した半官半民の海運会社を設立し、年貢米の輸送を中心に郵便や貨物の輸送を行わせた。しかし、民間の西洋型船の導入は進まず、また、政府の海運会社も業績不振が続いた。
 明治七年(一八七四)の台湾出兵に際し、民間の海運業者でいち早く汽船を導入した三菱会社は積極的に軍事輸送を担当した。これを機に、政府は民間の海運業者を保護・育成する海運政策を打ち出した。なかでも政府の手厚い保護をうけることとなった三菱会社は、横浜・神戸間や横浜・函館間などの太平洋沿岸に次々と定期航路を開設し、国内海運市場の掌握をすすめていった。
 一方、日本海沿岸航路では、従来からの和船による海運業が中心であった。敦賀県は八年に、坂井(三国)・敦賀・小浜の三港の状況を「日本形之小商舶物品運搬鬻スルノミニシテ、西洋形之商船等来津スルコトナク」と陸軍省の蕃地事務局に報告していた(『近代日本海運生成史料』)。また、『二府四県采覧報文』は十一年の坂井港における船舶の出入港状況を、その多くが「地方ノ日本形船」で、「一隻ノ汽船アレトモ唯坂井敦賀ノ間ヲ往復スルノミ」であり、一年間に「諸国ノ日本形船」が約八〇〇艘出入し、そのうち一〇〇石積み以上の船が三〇〇艘、以下が約五〇〇艘出入していると述べている。
 このような北陸地方の維新前後の海運状況をのちに『北国新聞』(大4・12・9)は、つぎのように総括していた。一、北前船と称し、大阪を根拠として、中国四国北陸東山北海の沿岸を回航する七〇〇〜一三〇〇石積みのもの。一、新潟通いと称し、当地方を根拠として北越より奥羽の西海岸に回航する三〇〇〜四〇〇石積みのもの。一、 小廻り船と称し、丹後地方又は能越沿岸を回航する一〇〇〜二〇〇石積みのもの。このうち、「北前船」と称される廻船は、西廻り航路を航行し、おもに大阪と北海道を往復する不定期の廻船で、各地を寄港しながら自ら仕入れた商品を売却して利益を得る「買積み」という方法をとっていた。つまり、遠隔地間の商品価格差を利用して利潤を得る、商人と回漕業を兼ねたものであり、商況によっては莫大な利益を得ることが可能であった。
 たとえば、石川県の北前船主広海仁三郎は、その出世譚でつぎのように述べている(『北国新聞』明34・9・26)。丁度明治の十年西南戦争の起った時ですが、船舶と云ふ船舶は皆な戦地への運搬に引上げられて、北海道へ来る船とては頓と御座りません。唯北海へ交通して居たのは、我が同郷の同業者が所有して居る和船ばかりで御座りましたが、此年に鰊が非常な大漁でありましたけれど航海の船は少なし、鰊粕が夏頃には百石三百五十円位して居たものが漸々と下落して来ましたが、此所に百石、彼所に二百石と云ふ風に鰊粕が売れ残って居る。若し當年中に売れねば囲ひとなるので、持主も気を焦燥って居る時分ですから極安く買へます。丁度後志のシャコタンより増毛に至るまでの七八郡の所で、彼是三万石も残って居ましたのを私の手で二万石ほど買取り、其値段は三百五十円からして居るものを二百円に買ひ、胴鰊は百二十円位に買取りました……所が翌年には此鰊粕が平均千円に騰貴して彼是十万円余りも儲けました。是れが私が支配する様になってから大儲をした始めです。
 この出世譚にあるように、北前船の最大の積荷は、当時肥料として急速に需要が高まっていった北海道産のニシンであった。西南戦争後、船舶の増加にともなって積極的に日本海航路への進出をはかっていた三菱会社もまた、このニシン肥料の輸送を担うべく小樽・北陸間の定期航路開設の準備を進めていた。しかし、函館支社は、北海道の移出入物資の荷主のほとんどは「和船々主」で、それを変更することはきわめて困難であり、「目下ノ利益ハ無之」と予想されるので、航路開設を見送るべきであると報告しなければならなかった。十年代前半においても北前船主らを中心とする旧海運勢力がかなり強大であり、三菱会社ですら日本海航路への参入が困難であった(『近代日本海運生成史料』)。
 明治前期は、多くの北前船主がもっとも利益を得た時期であり、所有する船舶も大型化する傾向があった。福井県の有力な北前船主であった南条郡河野村の右近権左衛門家を例にみても、明治元年から十年までの総収益は約一五万四〇〇〇両余に達する(表159)。また、毎年一、二艘の新造船や中古船を導入しており、そのほとんどは一〇〇〇石積み以上の船で、なかでも、八年に敦賀で新造した八幡丸は一三〇〇石積みの船であった。ちなみに、十一年の「船々鑑札控」によれば、共同出資の船を含めて一七艘の船を所有し、総石数は一万七二七七石に達し、このうち一〇艘は一〇〇〇石積み以上であった(右近権左衛門家文書)。
写真128 和船「八幡丸」

写真128 和船「八幡丸」



表159 右近権左衛門家の廻船数・収益高(明治1〜10年)

表159 右近権左衛門家の廻船数・収益高(明治1〜10年)
 なお、この時期、道路開鑿や港湾修築などに、北前船経営で蓄積した資金を投入する船主もあった。五年九月には、右近権左衛門と同郷の北前船主中村三之丞とが、費用の大半を負担することで、南条郡春日野から河野浦に通じる道路の開鑿を政府に請願し、七年五月に完成している(資10 二―一六二)。また、坂井港では九年ころから森田三郎右衛門・内田周平などが中心となって同港の修築を請願している。この修築計画では、修築費を発起人六人が一時立て替え、その後、同港に出入する船舶から徴収する「港銭」と称する入港税で償却するというものであった(『三国町史料』内田家記録)。これは、十一年に着工し、十三年十一月に一部竣工となった。いずれも完成後に使用料を徴収して費用の償却をはかる計画であったとはいえ、北前船経営が巨大な利益をもたらしていたことが、これらの事業を可能にしたのである。



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