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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      明治二十九年七月十五日、敦賀・福井間開通
 北陸線は明治二十六年(一八九三)四月に着工し、二十七年中には敦賀・森田間の七割が竣工した。十月の県会では、竣工区間での列車運転開始を求める建議を満場一致で採択した。二十八年前半には隧道および軌条敷設を除いて大略竣工したが、七月十六日から連日の暴風雨で大洪水となり、築堤は決壊、橋脚は倒壊し隧道は土砂で埋まるなどの大被害をうけた。とくに敦賀・今庄間の被害は甚大で、敦賀までの既設鉄道も長期の運転休止となり、復旧資材の輸送も海路にたよらざるをえなかった。十一月には、森田・今庄間が竣工して試運転が行われたが、今庄・敦賀間では阿曽と木ノ芽の両隧道が未通であった。敦賀・福井間が開通したのは二十九年七月十五日である。
 並行して工事が進められた森田・金沢間は、熊坂峠の隧道を除いて平坦な水田地帯である。二十七年十一月より線路用地の丈量に着手した。三十年九月七日、九頭竜川が決壊、福井駅構内でも浸水一週間に及ぶという大洪水となり、敷設工事は再び大被害をうけた。福井までの既設鉄道も、十一月末にようやく全通するというありさまであった。熊坂隧道は二十九年六月に着工し、三十年九月に完成、これを待って同月二十日に福井・小松間が開通、翌年四月一日には金沢、三十二年三月二十日には富山まで開通し、北陸線は全線開業となった(『北陸鉄道建設概要』金沢鉄道作業局出張所)。

写真126 鉄道開通を祝う俳句
写真126 鉄道開通を祝う俳句

 二十九年七月十五日の敦賀・福井間の開通に際し、福井・鯖江・武生・今庄などの各停車場では盛大な開業式や祝宴会が催された。福井停車場の模様を、十六日の『福井日報』は、裁判所横手より吹抜数流を立て、又数ケ所に球灯を富士山形に吊し、停車場前には国旗吹抜風車等林立し同場入口には大緑門を立て、「祝開通」と大書したる扁額を掲け国旗を交叉し、停車場には紅白の幔幕を以て張り詰めたり……停車場構内には半隊の軍楽隊整列して、汽車の発着のあることに楽を奏し居れり。又、停車場荷物積卸し建物内には、福井市会の催しにかゝる祝宴会を午后三時より開き、余興として煙火百六十本(内六十本は金沢市有志の寄附)を昼夜打ち揚げ、夜に入れば水花火(藤棚五十間)の催しありて非常の賑ひなりと報じ、さらに翌十七日の同紙も荒川知事はじめ三七〇余人が構内会場に整列し、福井市長渡辺弘氏が発起者惣代として、開会の趣旨と「将来鉄路開通と共に福井市民は昔日の睡を醒さゞる可らす」と演説した後、祝宴会の余興の音楽には「数万の見物人は或時は水を打たる如くに静かに耳を澄し、或時は万雷の落つるが如く喝采せり」と福井市民の鉄道開通への熱狂ぶりを報じている。
 福井発米原行、上りの初汽車は午前五時五十分発・敦賀着八時五十四分・米原着十時四十四分で、一五両編成であった(『福井日報』明29・7・16)。

写真127 時刻表(明治29年)
写真127 時刻表(明治29年)

 北陸線の敷設は、日清戦争前後の全国的傾向と同様、福井県にも「鉄道ブーム」をもたらした。表158は、政府に対し敷設計画が申請されたものである。発起人は、江若・若狭・小浜鉄道の場合は旧小浜藩主酒井氏関係の人びとおよび若狭地方の名望家層であり、越前電気鉄道はさきの北陸鉄道に加わった越前地方の人びとが中心である。そのほかの鉄道は、金津・三国間の支線を除いて東京・愛知・大阪などの県外人が発起人の筆頭者となっている。また、越前電気鉄道の場合、九頭竜川上流の滝波川に水力発電所を設置し、それを動力とするという画期的な計画であった。これらの計画は実現にはいたらなかったが、後年、敷設が実現したもの、バス路線として実現したもの、さらに現在も敷設計画が浮上しているものなど、その後の福井県の陸上輸送の源流となっている。

表158 福井県における鉄道敷設計画(明治27〜29年)
表158 福井県における鉄道敷設計画(明治27〜29年)



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