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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      北陸線三国支線の敷設
 三国への迂回線や支線敷設の請願は、結局実現されなかった。しかし、表158のように、県内外の人びとによって、三国を起点・終点あるいは経由する路線が計画されており、物資の流通上、三国は魅力のある地域であった。
 三国町においても鉄道敷設の運動が続けられ、明治三十一年(一八九八)十一月の通常県会で「北陸鉄道支線敷設ノ義ニ付建議」を全会一致で可決し、内務大臣に建議している(明治三二年『福井県通常県会議事録』)。内容は、北陸線の坂井郡新庄駅または金津駅と三国港三国町間に支線を敷設して陸海運輸交通の連絡をはかるというものであった。また三国港修築の竣工や九頭竜川改修の着手などを背景に、西シベリア鉄道が完成すると、三国は地形上伏木・敦賀とともに「最有望枢要ノ好位置ヲ占ムル」として、対岸貿易にも言及している。政府では、港湾付近の停車場と埠頭とをつなぐ支線敷設の計画もあったようであるが、日露戦争による国家財政の窮迫などから実現されなかった。
 四十一年、森田三郎右衛門をはじめとする三国町民の長年の運動と、当時衆議院議長や政友会幹事長などの要職にあった杉田定一の尽力によって、三国支線の測量費が採択され、ついで四十二年、鉄道改良費の名目で敷設予算が可決された(『杉田鶉山翁』)。金津・三国間の敷設距離は五マイル三二フィート、総工費は三五万円で、中間に芦原停車場が設けられることになった。四十三年一月には着工予定であったが、細呂木村・金津町間の土地買収の難航と、三国停車場位置問題の紛糾などから、七月着工となった。
 三国停車場は、鉄道院が氷川神社付近を指定地としたが、三国町は、道路建設を理由として、東方の久昌寺裏手を適地として鉄道院に変更を要請した(『福井新聞』明43・9・15)。この位置問題は、三国町内での対立ばかりでなく、周辺村や県、さらに鉄道院を巻き込んで、当時大きな問題となった。知事が双方の意見を調整し、鉄道院において詮議のうえ、四十四年一月、ようやく指定地より約六〇メートル東方に変更することとなった(『福井北日本新聞』明44・1・21)。町では、停車場敷地の買収に九六二五円(鉄道院に寄付)、停車場道路敷地に一八二五円、計一万一七五〇円の費用を要した。費用は町民への徴税と学校基本財産、町立病院積立金の繰入れによってようやく達成した(『三国町史』)。
 金津駅も移転新築となり、四十四年四月着工、ついで五月には線路敷設が開始され、十二月三日に試運転が行われた。そして、十二月二十五日、十四年の東北鉄道の計画以来三〇年、三国町およびその周辺各村の悲願であった鉄道が開通し、当日は港座を開場とする盛大な祝賀会が催され、参列者は六〇〇余人にのぼった。まず牧野巌三国町長の開通の喜びと鉄道を利用した将来の地域発展への責務を説いた式辞、ついで鉄道院および地方行政関係者からの祝辞があり、森田三郎右衛門の謝辞で閉会となった。その後、開明楼などでの祝宴に移った。また、さまざまな祝賀行事が催され、主要会場の装飾が、電球によっていっそう引き立ったことも注目された。八か月前の四月十五日、同じ港座で三国電灯株式会社の開業式があげられたばかりであり、電灯会社の開業と鉄道の開通は、三国町民ばかりでなく周辺村民に新しい時代の到来を強く印象づけたと推察される。当初の乗車賃は金津・芦原間が二等八銭・三等五銭、金津・三国間が二等一四銭・三等九銭であった(『福井北日本新聞』明44・12・14〜17)。
 さらに大正三年(一九一四)七月一日には、三国・三国港間の五六フィートが営業を開始し、海陸連絡線としての機能が完成した。しかし、前年の四月には、富山・直江津間の開通によって北陸線(米原・直江津間)が全通し、東海道線・信越線などに直結されて、鉄道による新しい流通体系が完成しており、三国が物資流通の要として再起する環境はすでに失われていた。こうして三国支線は、沿線住民の生活を守る鉄道として、また三国の海水浴、芦原温泉での保養のための鉄道としての役割を果たすようになり、昭和九年(一九三四)には二四往復に増加している。



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