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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      三国迂回論と三国町の運動
 明治二十六年(一八九三)十二月、三国では、森田から三国・吉崎を経て大聖寺に達する路線への変更を求める内容の「鉄道北陸福井森田大聖寺間線路再確定ノ件ニ係ル建議」を鉄道会議に提出した。理由の四点を略述するとつぎのようである(平野三郎家文書)。一、三国への迂回で数マイル増すが、熊坂峠の険峻が避けられ湯尾より倶利伽羅峠まで平坦な線路を敷設することができる。また、三国・吉崎間は海岸に近いが丘陵の麓陰に敷設するので国防上の問題はない。二、既定路線では、三国港より築造の材料を舟か軌道敷設によって金津および森田に運ばざるをえず、敷設のための設備費が必要となる。三国に迂回すれば、熊坂隧道の開鑿が不要である。三、三国は北陸道中の要港であり、三五万円の工費で港の修築も竣工しているので、鉄道が敷設されれば海陸両運輸の完成で経済上利益が大きい。四、三国港は嶺北七郡と加賀の江沼・能美・石川三郡の物産の集散地で、鉄道収入の増加につながる。毎年、吉崎本願寺の御忌日には一二、三万人の信者が参詣し、運賃の利益増加が見込める。この建議書からは三国の人びとの敷設実現にかける必死の心情が読みとれる。
 二十七年一月の第三回鉄道会議に、上記の建議が渋沢栄一以下一一人の鉄道会議議員の連名によって「鉄道北陸線中線路再確定ノ件ニ係ル建議」として提出された(第三回『鉄道会議議事速記録』全)。政府は、在来的な流通経路による私設鉄道的な発想に対し、官設鉄道による新しい全国的な流通網を企図していることを示し、三国港迂回線をとらない理由とした。陸軍も、海岸に露出する鉄道は国防上から強硬に反対した。しかし、この会議では、三国の必死の巻返しによって、迂回路線の再調査を認める議決が行われた。停車場の設置が予定されていた金津では危機感を強め、「福井県坂井郡金津町既定線既成同盟会」を組織し、既定路線敷設の建議書を鉄道会議および逓信大臣に提出し、さらに貴衆両院にも提出すべく衆議院議員杉田定一を通じて運動が行われた(杉田定一家文書)。
 第四回鉄道会議では、渋沢栄一ら一一人の議員が、「北陸鉄道ノ森田若クハ金津ヨリ分岐シ三国港ニ至ル支線調査ノ建議案」を提出した(第四、五回『鉄道会議議事速記録』全)。二十七年六月、九頭竜川に沿う敷設は治水上の問題もあるということとなり、ついで、既定路線の敷設ののち、必要ならば支線の敷設も可であると政府が答弁して、既定路線敷設の方針が貫かれた。
 三国の運動はなお続けられた。二十七年八月、金沢で開催された全国商業会議所連合会に、福井商業会議所は「鉄道北陸線中森田大聖寺間線路再確定建議の件」という建議書を提出した。建議の要旨は、森田より三国・吉崎を経て大聖寺に達する路線への変更を要求したもので、農商務・逓信の両大臣および貴衆両院への建議・請願を求めていた。福井商業会議所や全国商業会議所連合会を動かして、あくまでも既定路線の変更を希求する三国の人びとの強い意志をうかがうことができる(『福井』明27・8・25)。



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