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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      鉄道会議と路線決定
 「鉄道敷設法」では、鉄道敷設に関する審議機関として鉄道会議の設置が明記されていた。第一回の鉄道会議は、明治二十五年(一八九二)十二月から二十六年三月にわたって開催され、二月十日の会議では、北陸線について審議がなされた。路線の概要は、敦賀停車場・(樫曲)・隧道二か所・(葉原)・(寺谷)・隧道一か所(木ノ芽嶺)・(阿曽)・隧道二か所・杉津停車場・隧道六か所・隧道一か所(山中峠)・今庄・鯖波・武生・鯖江・大土呂・福井・森田・金津の各停車場・隧道一か所・大聖寺・動橋・小松・美川・松任・金沢・津幡・今石動・福岡・高岡・小杉・富山の各停車場、一二三マイル五七チェーン余、橋梁二〇九か所、隧道一五か所、停車場二三か所、工費約七二〇万円である。一五か所の隧道のうち、一二か所が敦賀・今庄間に集中しており、この区間の難工事ぶりがうかがえる。この路線は、いうまでもなく東北・北陸両鉄道会社の計画がもとになっているが、大きな変更点は、従来敷設上の要地としてきた三国を経由しないことである(資10 二―一七八)。
写真125 杉津駅付近

写真125 杉津駅付近

 鉄道会議では、政府案について、おもにつぎの二点が審議されている。一つは、「坂井港ニヨラズシテ真直ニ往クト云フコトハ至極軍事上ニ於キマシテモ利益」があるということと、「杉津ト申ス今ノ停車場ノ出来ルアノ近傍デ山ノ半腹ヲ線路ガ通ルコトニナツテ居ル……海上ニ対シテ掩ハレル様」な設計を希望するという、軍事上の観点である。二つは、「坂井港若クハ伏木アタリノ海岸ニ接続セヌト云フコトハ……鉄道其物自身ノ経済」の欠陥となるおそれがあり、坂井港への迂回が不利益であるなら「支線ヲ接続サセルト云フ設計ガ希望シタイ」という経済上の観点で、これは、明治財界の重鎮渋沢栄一の意見である。三国を経由させるか否かが大きな論点となっていた。政府は、既成の物資集散地と鉄道の敷設は無関係であり、迂回はその分経済的に不利益であるとするとともに、また支線敷設はこの法律外のことで、現段階での審議は不要であると主張し、路線は原案で確定された。かつて東北・北陸の両私設鉄道会社では、三国は路線上・建設上の要地であり、さらに北陸鉄道では、福井県の敷設運動の中心であったが、官設鉄道では、三国は迂回路として敷設の対象外とされたのである。
 三月二十一日の会議では、着工手順をめぐって紛糾した。政府原案は「敦賀ヨリ起工シ直チニ葉原山中間ノ隧道開鑿其他土工橋梁等ノ工事ニ着手スル見込ニシテ、時宜ニヨリ森田ヨリ武生ノ方ニ向テモ亦起工スヘキモノトス」とあった。この「時宜ニヨリ」以下が問題となり、再び三国への迂回論や支線敷設が検討されるが、さきの決定を動かすことにはならなかった。



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