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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      官設の運動と「鉄道敷設法」
 明治二十三年(一八九〇)、不況が再来すると、鉄道業への投資家から私設鉄道の国家買上げの請願があいついだ。二十四年七月、鉄道庁長官井上勝は、軍事・経済の両面から幹線鉄道官設官営主義を示した「鉄道政略ニ関スル義」を建議、これにもとづいて、内務大臣品川弥二郎は二十四年の第二回帝国議会に「鉄道公債法案」「私設鉄道買収法案」の二法案を提出した。なお、これよりさき、十八年の内閣制度成立による工部省の廃止で、鉄道局は内閣直属となり、二十三年には内務省管下の鉄道庁となった。
 二十四年八月、福井県知事に牧野伸顕が着任し、土木・勧業・教育に重点をおいた施政方針が示され、北陸鉄道についても官設への転換を促した。元来この鉄道は行政の役割が大きいうえに、県会議長の山田卓介や北陸鉄道会社の有力発起人でもあった牧野逸馬らも、北陸鉄道の官設請願を企図していたので、転換は容易であった。十月下旬の発起人総会において、一〇か月延長のうち五か月を残して、私設の中止と官設の請願を決定した。不況の再来で資金募集がいよいよ困難になっていくなかで、他地方に遅れずに殖産興業の目的を達成するための現実的な選択であった。十一月、県会は、内務大臣品川弥二郎あての「北陸鉄道ノ官設ヲ請フ建議」を決議し、議長山田卓介、旧北陸鉄道理事林藤五郎、福井市長鈴木準道が官設請願の委員として上京した(『県議会史』一)。また、県内有志からの衆議院・貴族院の両議員を介した請願も進められた。
 十二月、敦賀・富山間は「鉄道公債法案」に採用され、官設幹線鉄道の一線となった。同法案は衆議院解散で廃案となるが、翌年の第三回帝国議会には「鉄道敷設法案」として上呈され、六月に可決・公布された。
 「鉄道敷設法」では、官設幹線鉄道の予定線として三三路線をあげており、そのうち北陸線は「福井県下敦賀ヨリ石川県下金沢ヲ経テ富山県下富山ニ至ル鉄道、及本線ヨリ分岐シテ石川県下七尾ニ至ル鉄道」とされていた。一二年間で敷設予定の第一期線に、中央線などとともに敦賀・富山間が記され、北陸鉄道が第一期の官設鉄道として敷設されることになった。福井県にとっては、敦賀より木ノ芽嶺を開鑿しての敷設であり悲願達成であった。
 二十四年十二月、早期着工請願のため「北陸鉄道期成同盟会」が結成された(資10 二―一七七)。第一回の集会で、三県から各一人の常任委員が選出され、富山県から鳥山敬二郎、石川県から朝倉外茂鉄、福井県からは林藤五郎が当選した。福井県の場合、林藤五郎北陸鉄道理事の委員就任によって、北陸鉄道敷設運動の体制がそのまま官設鉄道推進運動に受け継がれたと推察できる。



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