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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      北陸鉄道会社の内紛
 仮免状下付で敷設運動は大きく前進するはずであったが、株主委員会総会での理事委員選挙をめぐって発起人間に紛争が起こった。理事委員の名前は明確でないが、新聞から類推すると、富山県は関野善次郎・馬場道久、石川県は久保彦兵衛・横山隆平、東京都は狭間正隆・疋田直一、そして福井県は林藤五郎・竹尾茂が就いたようである。富山県は不明だが、福井・石川の両県は金沢での理事委員選挙に強い不満を示していた。福井県側は、理事会に提出した意見書が採用されない時は分離を覚悟するという強硬なものであった(『福井新聞』明23・2・15)。
 「私設鉄道条例」による仮免状の発効期間は一八か月であるが、三月二十日の『福井新聞』では「未だ理事長の選任もなく調和も出来ざる由」と報じ、七月二十日の『福井新聞』は、「測量に着手するの状だになく発起人諸氏の如きも殆んど之れを忘却した」ようであるとして事態を憂慮し、北陸鉄道の現状を「第一、発起人間の折合悪しき事 第二、株金収入に困難あるへき事」と分析している。第一の原因は、七月一日実施の第一回衆議院選挙による政党の争いであり、第二は前年末からの不景気による金融の逼迫と株式の低落である。
 八月になってようやく動きが起こってきた。福井県の株主総会が開かれ、中旬に金沢で開催予定の株主委員会総会の出席委員に林藤五郎・牧野逸馬・前田閑・竹尾茂・内田謙太郎の五人を選挙した。金沢での委員会総会では、理事委員をめぐる内紛の収拾について協議が行われ、富山・石川・福井三県の発起人から各県知事あてに依頼書を提出することに決した。依頼書には、仮免状期限の過半経過という危機感に立って「規定ノ条規ニ関セス便宜ノ法ヲ以テ御取扱被下度、然ル上ハ発起人一同ニ於テハ聊異義無之渾テ御指揮ニ従ヒ可申」と記されている。これまでの議論や決議を棚上げした三県知事への「全権委任状」である。九月中旬、金沢で三県知事の会合がもたれた。福井県からは知事代理として本部書記官、石川県からは船越衛知事、富山県からは島田宗正書記官が出席して協議が行われ、後日三県知事が上京することとなった。十一月に入り、東京で、理事長選出や技師招聘、測量の着手などについて発起人の委員会が開かれ、在京の三県知事との間で協議が行われ、二十四年早々より実地測量の諸事準備が進められることになった。福井県からの出席者は林藤五郎・永田定右衛門・岡部広・日種宗淵である。測量掛には、富山県は関野善次郎、石川県は久保彦兵衛、福井県は林藤五郎、他府県からは高島嘉右衛門がつき、線路測量技師には河野天随が決まったが、当年の大雪で実測は延期された。三月中旬、福井市内から測量が開始され、下旬には三国・敦賀方面へと延びた(『福井新聞』明23・8・28、9・21、11・22、24・3・14、26)。
 四月には、北陸鉄道福井仮事務所で県発起人総会が開かれ、理事に林藤五郎が推せんされた。ついで三十日、福井市と嶺北七郡の関係町村に、測量と検査のための土地収用法適用が示された(県告示第八二号)。五月、北陸鉄道創立事務本部より、金沢市長に「北陸鉄道創立事務理事発起人ニ於テ選挙仕候処、久保彦兵衛、林藤五郎、関野善次郎、狭間正隆、山野清平、森下森八、谷与差右衛門、竹尾茂、当撰相成候」の届出が提出されている(『福井新聞』明24・4・29)。
 二十二年十二月の仮免状下付より約一八か月で、ようやく本格的な準備体制が整えられた。仮免状の期限は一八か月であり、北陸鉄道では一〇か月間の延期を請願し許可されたが、その後も作業は容易に進まず、十一月十九日付で北陸鉄道廃止の届出が品川弥二郎内務大臣に対して提出された(「公文類聚」第一六編)。民力による鉄道敷設の運動はついに実らなかったが、政府が幹線鉄道官設主義を明確に打ち出したことや、北陸鉄道の行政主導的な性格もあいまって、官設の運動へと急転換していく。



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