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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      東北鉄道会社の挫折
 明治十五年(一八八二)十二月末に、政府は石川・福井両県令に対し許可の条件を内達した。条件の大部分は、松方デフレ下での資金難を予想して、募金の方法・内容に関するもので、「第一募集金額一ケ年内ニ三分ノ一ニ不充時ハ其工事廃業タルベシ」というきわめてきびしいものであった(『工部省記録鉄道之部』)。
 福井以南の路線が当面の敷設計画からはずされたことは、越前地方の発起人には重大関心事であった。十六年三月、松平茂昭ほか六人より東北鉄道会社の発起人を辞退する旨の上申が、政府に提出された。越前にとり「南方峻嶺ヲ洞開セザルノ工事」では鉄道敷設の目的を達成することができないので、このような鉄道の「株主タル事ヲ欲セ」ず、さらに旧藩主の「発起タル事ヲモ亦之レヲ喜バ」ないということである。東北鉄道会社には、華族資金の活用に加えて、地元の資産家たちの経済活性化の要求があったのである(資10 二―一七四)。
 松平茂昭らの上申と同じ十六年三月、前田利嗣・利武・利鬯・利同・斉泰・大谷光瑩の連名で、「東北鉄道会社創立願猶予」の願書が提出され、さらに、十六年五月、前田利嗣ら五人と東西両本願寺門主から同会社創設の願書が再提出された(『工部省記録鉄道之部』)。敷設路線は、井上勝の上申案にほぼ同一の富山・伏木港・坂井港・福井で、着工の第一を伏木港・富山間とし、資金の三分の一は一年半以内に、全額を四年半で募集するという内容である。政府は、これに対し敷設路線の変更を認めたものの、資金募集は不許可とし、さきの「内達」の厳守を指令した。松方デフレ下の米価の下落も重なり、地主を中心とした一般株主の鉄道敷設に対する資金力と意欲の喪失に直面し、資金募集はたちまち暗礁に乗り上げた。また、発起人間にも対立が生まれ、「啻ニ一人ノ賛成者ナシノミナラス之ヲ中止セン事ヲ勧諭スル者多シ」という惨憺たる結末となり、十七年四月、前田利嗣は、政府へ受書および会社定款の提出ができず、北陸を縦走し日本列島を斜横断する鉄道敷設計画は挫折した(金沢商工会議所文書)。



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