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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      東北鉄道会社の誕生
 鉄道敷設の資金は莫大であった。政府は外国資金の導入で敷設を進めたが、西南戦争の戦費とその後の激しいインフレーションで、逼迫した財政状況はいっそうきびしくなった。政府はインフレ抑制のため緊縮政策をとり、鉄道にも民間資金の積極的な活用がはかられた。明治九年(一八七六)の秩禄処分で多額の金禄公債証書を支給された華族は、資産の分散防止と運用のため第十五国立銀行を創立し、十四年十一月に同行内に日本最初の私設鉄道会社である日本鉄道会社(資本金二〇〇〇万円)の創設事務所を設立した。敷設計画の路線は、東京・青森間、高崎・長浜間、中仙道線、新潟・羽州間、大里・長崎および肥後間で、まさに全国的な幹線鉄道網を構想した会社であった。
 同じころ、北陸地方の華族を中心に東北鉄道会社(資本金四五〇万円)が設立された。十四年八月十二日付で政府に提出された「前田利嗣外十三名ヨリ東北鉄道会社ヲ創設及事業保護ノ議願」によれば、「加越地方ヨリ江州柳ケ瀬ノ線路ニ接シ同国長浜ノ線路ヲ延接シ勢州四日市」にいたる鉄道敷設計画で、発起人は表155のように、越前・加賀・能登・越中各国の旧藩主と、北陸に多くの信者をもつ東西本願寺の門主であった(『工部省記録鉄道之部』)。十五年五月には、東京に創立仮事務所が置かれた。「鉄道会社創立願」には、冬季の海上交通の危険なこの地方に、交通の便と殖産の道を開くには鉄道以外にないとし、「利嗣等此土ノ士民ニ旧故アルヲ以テ情誼ノ関スル所黙視傍観スルニ忍ヒス」と、旧藩主たちの執心と面目を示している(資10 二―一七二)。

表155 東北鉄道会社発起人

表155 東北鉄道会社発起人
 敷設計画は、「東北鉄道会社創立規則」では、第一期は官設の敦賀・長浜間の柳ケ瀬から越中富山へ(七尾港への支線なども計画)、第二期は長浜・伊勢四日市港間および富山・越後柏崎間(長浜・四日市間は第一期への繰上げも計画)、第三期は柏崎・越後新潟間で、日本列島中央部を斜横断する大規模なものであった(資10 二―一七三)。資本金四五〇万円のうち発起人の負担は四八万六〇〇〇円(創立当初)で、不足分は一般募集を予定していた。十五年六月現在、石川県(十六年五月までは現在の富山県も含む)下で二三〇万円、福井県下で一〇五万円の応募があり、発起人株との合計では三八三万六〇〇〇円となる(『工部省記録鉄道之部』)。
 政府では、十五年五月二十四日から約一か月、工部技監大鳥圭介を派遣し実地踏査を行った。大鳥の「加越地方巡歴復命書并ニ意見書」によると、越前南部の山岳地帯(木ノ芽嶺)に敷設する技術上の問題点と、株金公募の困難性を指摘し、さらに、工事の手順については、坂井港を中心に福井と金沢・高岡の両方向へ敷設すること提案し、福井以西は他日に譲ることを求めている。ついで、工費については、福井・坂井港・金沢間が一九五万円、敦賀・福井間が三一九万余円、金沢・富山間が一五七万余円、合計で六七一万余円を必要とするとしている。鉄道局長井上勝はこの案をうけて、「先ヅ坂井港ヨリ起手シ、一手ハ福井ニ一手ハ金沢ニ向テ進ミ、他ノ一手ハ伏木港ヨリ着手シ却行シ金沢ニ会セバ、資用物品運搬等ニ冗費ヲ要セズ」との案を上申している。井上案は、北陸・北海道と関西の連結を、当時の技術と資金の両面からの現実的な輸送方法として、当面は(海路)・伏木港・(鉄道)・坂井港・(海路)・敦賀港・(鉄道)という経路で構想していたと推察できる(『工部省記録鉄道之部』)。



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