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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      敦賀・長浜間の鉄道敷設
 明治十三年(一八八〇)四月、敦賀・米原間の鉄道敷設工事が、敦賀と長浜の双方から開始された。翌年二月には金ケ崎・疋田間が荷物輸送に限定して開通した。同年、敦賀・米原間が敦賀・長浜間に変更、さらに長浜より関ケ原に延線(十六年五月開業)された。十五年三月十日、金ケ崎・柳ケ瀬隧道西口間(約一〇マイル)と長浜・柳ケ瀬間(約一四マイル)の汽車運転が開始され、四往復の列車が発着した。金ケ崎・洞道口(柳ケ瀬隧道西口)間の乗車運賃は片道一五銭であった。区間最大の難工事の柳ケ瀬隧道(一三五二メートル)は、十三年六月に着工し十七年三月完成、四月十六日には、金ケ崎・長浜間が全線開業となった。旅客・貨物各三往復、所用時間二時間三六分、片道四〇銭である。
写真123 時刻表(明治17年)

写真123 時刻表(明治17年)



写真124 敦賀駅

写真124 敦賀駅

 鉄道は、敦賀港の機能を大きく発展させた。北海道開拓使編『二府四県采覧報文』によれば、敦賀港は、十一年現在で北陸主要一三港中第八位で、現在の福井県内では坂井港(三国港は四年に坂井港と改称)・小浜港についで第三位であった。第一位の伏木港の移出入額は約三九六万円、坂井港は約六八万円、敦賀は約三二万円である。坂井港の半分に満たない敦賀が注目された理由には、機能の違いがある。坂井港では、北海道からの移入品(ニシン・〆粕・白子などの肥料)は坂井・足羽・吉田・丹生・今立の各郡に売りさばかれたが、敦賀では「鯡〆粕白子等ノ肥料ハ大概近江国ニ輸シ、身欠鯡昆布棒鱈魚ノ子烏賊ノ類ハ近江及西京美濃等ニ転販」されており、敦賀は広く中京・関西方面の玄関口の役割をもっていた。さらに、移入額のうち塩マス・ニシン類で八二・四パーセント、移出額のうち藁莚・蝋燭・藁縄など北海道関連品で七六・四パーセントを占めている。北海道の開発は政府の重点政策の一つであったので、敦賀は先進地の関西・中京の経済力と北海道を結ぶ「扇の要」として位置づけられ、横浜・兵庫(神戸)の二港とともに重要港とされたのである。前二港は対外貿易の拠点港として、敦賀は国内商品流通、とくに北海道開発の要地として期待されたと推察される。期待どおり、松方財政による不景気下でも敦賀港の移出入額、とくに移入額は大幅に増加した(表154)。また、全国的な好景気を反映した二十一、二十二年の激増は、政府が期待したように、敦賀が関西と北海道および日本海沿岸地方の物資相互流通の結接点としてますます機能してきたことを物語っている。

表154 坂井・敦賀港移出入額(明治17〜23年)

表154 坂井・敦賀港移出入額(明治17〜23年)
東北鉄道会社の誕生
 鉄道敷設の資金は莫大であった。政府は外国資金の導入で敷設を進めたが、西南戦争の戦費とその後の激しいインフレーションで、逼迫した財政状況はいっそうきびしくなった。政府はインフレ抑制のため緊縮政策をとり、鉄道にも民間資金の積極的な活用がはかられた。明治九年(一八七六)の秩禄処分で多額の金禄公債証書を支給された華族は、資産の分散防止と運用のため第十五国立銀行を創立し、十四年十一月に同行内に日本最初の私設鉄道会社である日本鉄道会社(資本金二〇〇〇万円)の創設事務所を設立した。敷設計画の路線は、東京・青森間、高崎・長浜間、中仙道線、新潟・羽州間、大里・長崎および肥後間で、まさに全国的な幹線鉄道網を構想した会社であった。
 同じころ、北陸地方の華族を中心に東北鉄道会社(資本金四五〇万円)が設立された。十四年八月十二日付で政府に提出された「前田利嗣外十三名ヨリ東北鉄道会社ヲ創設及事業保護ノ議願」によれば、「加越地方ヨリ江州柳ケ瀬ノ線路ニ接シ同国長浜ノ線路ヲ延接シ勢州四日市」にいたる鉄道敷設計画で、発起人は表155のように、越前・加賀・能登・越中各国の旧藩主と、北陸に多くの信者をもつ東西本願寺の門主であった(『工部省記録鉄道之部』)。十五年五月には、東京に創立仮事務所が置かれた。「鉄道会社創立願」には、冬季の海上交通の危険なこの地方に、交通の便と殖産の道を開くには鉄道以外にないとし、「利嗣等此土ノ士民ニ旧故アルヲ以テ情誼ノ関スル所黙視傍観スルニ忍ヒス」と、旧藩主たちの執心と面目を示している(資10 二―一七二)。
 敷設計画は、「東北鉄道会社創立規則」では、第一期は官設の敦賀・長浜間の柳ケ瀬から越中富山へ(七尾港への支線なども計画)、第二期は長浜・伊勢四日市港間および富山・越後柏崎間(長浜・四日市間は第一期への繰上げも計画)、第三期は柏崎・越後新潟間で、日本列島中央部を斜横断する大規模なものであった(資10 二―一七三)。資本金四五〇万円のうち発起人の負担は四八万六〇〇〇円(創立当初)で、不足分は一般募集を予定していた。十五年六月現在、石川県(十六年五月までは現在の富山県も含む)下で二三〇万円、福井県下で一〇五万円の応募があり、発起人株との合計では三八三万六〇〇〇円となる(『工部省記録鉄道之部』)。
 政府では、十五年五月二十四日から約一か月、工部技監大鳥圭介を派遣し実地踏査を行った。大鳥の「加越地方巡歴復命書并ニ意見書」によると、越前南部の山岳地帯(木ノ芽嶺)に敷設する技術上の問題点と、株金公募の困難性を指摘し、さらに、工事の手順については、坂井港を中心に福井と金沢・高岡の両方向へ敷設すること提案し、福井以西は他日に譲ることを求めている。ついで、工費については、福井・坂井港・金沢間が一九五万円、敦賀・福井間が三一九万余円、金沢・富山間が一五七万余円、合計で六七一万余円を必要とするとしている。鉄道局長井上勝はこの案をうけて、「先ヅ坂井港ヨリ起手シ、一手ハ福井ニ一手ハ金沢ニ向テ進ミ、他ノ一手ハ伏木港ヨリ着手シ却行シ金沢ニ会セバ、資用物品運搬等ニ冗費ヲ要セズ」との案を上申している。井上案は、北陸・北海道と関西の連結を、当時の技術と資金の両面からの現実的な輸送方法として、当面は(海路)・伏木港・(鉄道)・坂井港・(海路)・敦賀港・(鉄道)という経路で構想していたと推察できる(『工部省記録鉄道之部』)。



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