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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    三 北陸線の敷設
      敦賀への鉄道敷設計画
 明治五年九月十二日(一八七二年十月十四日、鉄道記念日)、東京(新橋)・横浜間の鉄道開業式が挙行され、日本で最初の鉄道が完成した。民部・大蔵大輔であった大隈重信は、のちに、当時を回顧して「封建制割拠の思想を打砕くには、余程人心を驚かすべき事業」が必要であるとして鉄道の敷設を企てたと述べている(『帝国鉄道協会会報』第三巻第三号)。鉄道の敷設には、中央集権制を進め富国強兵をはかるという目的に加えて、誕生間もない新政府に衆目を集め期待を抱かせる宣伝政策の役割もあったのである。
 現在、日本の鉄道に関する最初の史料は、弘化三年(一八四六)『別段風説書』(臨時の『オランダ風説書』)である。福井藩では、橋本左内の『西洋雑詠』という漢詩に「山落纔過条水村 火輪宛転黒烟噴 人間快事無堪擬 百里長程転瞬奔」という一編がある(『橋本景岳全集』下)。橋本が藩主松平慶永の腹臣として、藩務や国事に奔走していた安政ころの作とされており、書籍などで得た知識による創作と推測される。橋本は、宛転し黒烟を噴く火輪(汽車)の雄姿に、新時代の到来をみたばかりでなく、この時、彼自身が火輪で百里を奔る思いであったと推察される。また、村田氏寿の『関西巡回記』や、横井小楠の『国是三論』にも、蒸気車や鉄道のことが記されており、一八五〇年代には、福井藩でも、鉄道に関する知識があったことがうかがえる。
 日本に鉄道を敷設する計画は、慶応二年(一八六六)ころより起こった。薩摩藩は、京・大坂間の、在留のイギリス人やアメリカ人は、江戸(東京)・横浜間や大坂・兵庫間の鉄道敷設を求めてきた。明治新政府は、外国人による鉄道の敷設に警戒心を抱く一方で、鉄道の役割に大きな理解と期待をもっていた。明治二年(一八六九)十一月、政府はイギリスの技術と資金を導入して、東京と西京(京都)を結び大坂・兵庫(神戸)にいたる幹線(当初は路線が不明確で、東海・中仙の両道について実地調査が行われ、十六年に中仙道線に決定、さらに十九年にいたって同線を廃止し東海道線に変更となった)と、東京・横浜間および琵琶湖岸・敦賀間の二支線の敷設を決定した。三月、民部・大蔵省に鉄道掛が設置され、東京・横浜間の測量が開始された(『日本国有鉄道百年史』)。
 京阪地方と日本海側を結ぶ鉄道の敷設は、地方からも起こっている。三年秋、京都府権大参事槙村正直が、北海の物産を南海に輸送する目的で、政府に敦賀もしくは小浜から京都への鉄道敷設を建言した(資10 二―一六九、小谷正典「福井県における北陸線敷設運動の展開(一)」『福井県史研究』七)。
 四年三月、太政官から京都・敦賀間の測量を認める達が出され、四月には雇英人技師らが敦賀・塩津間、大津・京都間の測量を開始した。英人技師のもとで敦賀・塩津間の測量についた佐藤政養は、六年七月に工部大輔山尾庸三に意見書を提出し、京都・神戸間の鉄道の成否は敦賀にかかっているとして、敦賀・塩津間の早期着工を求めた(佐藤政養家文書)。しかし、七年五月の神戸・大坂間開通、つづく大坂・京都間着工(十年十二月開通)、京都・敦賀間の測量終了にもかかわらず、敦賀への鉄道敷設は許可されなかった。
鉄道頭井上勝の鉄道敷設の督促や、英人技師ボイルの「西京敦賀間並中仙道及尾張線ノ明細測量ニ基キタル上告書」などによって、九年十二月、工部卿伊藤博文が太政大臣三条実美に京都・敦賀間の鉄道のうち京都・大津間の鉄道敷設費用概算書を提出し、ようやく敷設が許可された(『日本鉄道史』上)。西南戦争で工事延期となったが、十一年には起業公債によって工事が再開された。  写真122 井上 勝

写真122 井上 勝

 十二年十月九日、塩津経由、米原・敦賀間の鉄道敷設が決定された。当初、敦賀・京都間は、敦賀・塩津間と大津・京都間を鉄道で、塩津・大津間は琵琶湖の舟運で結ぶ計画であったが、さきのボイルの「上告書」では、京都・敦賀間は「西京ヨリ大津米原並塩津ヲ経テ敦賀」に至る路線とされ、敦賀・米原間は「東西ノ都府ニ跨ル内国鉄道主線ノ一部」として構想されるようになった。十一年の起業公債での敷設計画にも、敦賀・米原間が計上されたが、着工にはいたらなかった。十二年の決定には、鉄道局長に就いた井上勝の強い建言があった。
 十三年一月、井上は工部卿山田顕義に「意見書」を提出し、敦賀より塩津街道沿いに南下し麻生口において左折、刀根・柳ケ瀬を経由し北国街道沿いに長浜にいたる路線を建言した(資10 二―一七〇)。理由は、柳ケ瀬経由の方が勾配が緩やかであることと、将来の福井・金沢方面への路線延長(滋賀県椿坂より分線し栃ノ木峠を越え、今庄・武生を経て福井へ)、中仙道への連絡上(関ケ原を経て大垣へ)便利となることなどである。塩津から長浜への変更は、この鉄道が井上勝の全国幹線鉄道官設構想のなかに位置づけられたことを意味した。



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