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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    二 水害と河川改修
      権衡工事問題と河川改修計画
 九頭竜川の本格的改修は、県政の積年の課題であるとともに、県民待望の事業でもあった。したがって、県下各域にわたる積極的な土木事業の実施を期待させるもので、県民の負担と受益の権衡をとるという観点からも、事業対象外の河川や道路の改修を求める声が起こった。前述したように、「九頭竜川改修施工ノ件」が諮問された明治三十年(一八九七)十一月の通常県会で、土木調査委員の設置や、嶺南四郡の要改修の河川道路の調査と改修立案を求める建議があいついで可決されたのは、このような期待を反映していた。土木調査委員による県下全域の調査は、三十一年四月より約三か月間にわたって実施された。四月二十三日に県庁を出発、鯖江・武生・敦賀を経て小浜にいたり、ついで四月二十九日から滋賀・京阪神地方の視察となり、五月七日からは高浜・小浜・敦賀方面の調査が実施された。五月の中旬以降には南条・今立・丹生・足羽の四郡下を調査、七月に入って九頭竜川上流や真名川の流域、さらに油坂・谷峠など奥越県境の調査が続けられ、十七日に全行程が終了した。
 三十三年三月の臨時県会で、九頭竜川改修事業の県費負担金とともに、いわゆる権衡工事事業として一〇か年間継続の県下各道路河川港湾の改修(予算五二万五八〇〇円)が議決された。さきの県会での諸建議や土木調査が反映されたものであるが、経済不況下での過重な税負担となる財政膨張政策への不満に加えて、「最モ必要ナル勝山道外十道、日野川外七川ノ改修及日向港湾ノ修築ヲ為ス」(県告示第一一四号)という付記が政争の種となり、岩男知事更迭問題に発展、後任の宗像知事によって権衡工事一〇か年計画は撤回された。
 三十五年、県下の河川改修計画が福井県技師の勝又愛治郎によって立案された。この計画は、十八、二十八、二十九、三十二年の水害の状況をもとに立案されたもので、水害の景況と原因、県下各河川の現況と改修工事費予算、および工法などが具体的に記され、対象の河川として、日野川(天王川・和田川を含む)、笙ノ川、木ノ芽川、北川(江古川、遠敷川を含む)、南川(多田川を含む)、佐分利川があげられ、改修予算の総額は、一六一万四〇〇〇余円にのぼっている。改修のおもなものは、築堤、川幅の拡大、堆積土砂の浚渫、屈曲部分の矯正などがあるが、さらに日野川では天王・和田の両支川への逆流防止、北川では江古川の北川への合流、南川では今富村伏原・国富村竹原間の新川開鑿があげられている(『福井県土木史』)。
 県下全域の主要河川の改修計画が立てられたものの、日野川を対象として国直轄の第二期九頭竜川改修事業が施行されたほかは、大正十五年度より始まる国直轄の北川改修事業までは、本格的な改修事業は実施されず、一〇〇間から二〇〇間規模の築堤を中心とする局部的な改良が続けられた。



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