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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    二 水害と河川改修
      九頭竜川改修の計画
 嶺北地方には、九頭竜川を本流に真名川、日野川、竹田川などの支川と、日野川支流の足羽川、浅水川などの河川があり、西流または北流して越前平野西北端の三国港で日本海に注いでいる。江戸時代には、治水対策は局地的事業に終始しがちであり、九頭竜川では、左岸には布施田から山岸にいたる三二か村立合大堤(延長五八〇〇間・高さ三間余)など二二の堤防が、右岸には木部新保大堤(延長一〇〇〇間・高さ二間)など一六の堤防が、各々独立して築かれていた(『福井県土木史』)。物資輸送では舟運の役割が大きかったので、堤防の高さも低く、長さも二、三〇〇間もあれば大規模な方で、たえず水災の危機に直面していた。ほとんどすべての河川が九頭竜川に収束されるため、同川の治水は、当地に生活する人びとの悲願であった。
 明治三年(一八七〇)、福井藩は九頭竜川に築堤工事を施工、翌年には日野川と合流する吉田郡高屋村から坂井郡正善村間の約三〇〇〇間にも着工の予定であったが、廃藩置県でとりやめとなった。坂井郡大牧村の坪田仁兵衛らは、ここに高さ六尺余の春江新堤の築造を計画し、政府御雇オランダ人技師エッセルによる測量や県当局へ請願がくり返された。十八年七月の洪水は大被害をもたらし、大牧村など三四か村では、総代が連署して春江新堤の築造を請願、これをうけて実地測量も行われた。しかし、対岸の菖蒲谷や木部新保大堤の内にある木部新保村など三一か村の反対もあり、着工にいたらなかった。
 二十年前後になると、幹線鉄道の敷設や道路・橋梁の整備の進展などで、新しい物資輸送構想が具体化し、舟運への期待は薄くなり、治水を中心とした大規模な築堤方式の高水工事が施工されるようになった。九頭竜川でも、二十二年に、春江新堤のために内務省から技師が派遣され、調査が行われた。また二十四年八月には牧野伸顕知事が着任し、積極的な土木行政が展開されることになった。二十五年、内務省は、治水事業の基本調査として全国主要河川の測量に着手し、九頭竜川もその対象となった。すでに、二十二年の県会の議決によって、内務省から技師が派遣され九頭竜川の調査を実施していたが、二十五年、県土木工師として二見鏡三郎を採用、同年から二十七年にかけて、九頭竜川(大野郡鹿谷村保田より下流)・日野川(丹生郡天津村清水山より下流)・足羽川(足羽郡六条村小稲津より下流)の各河川の調査を実施した。
 二十五年十一月の通常県会で、県当局は九万七〇〇〇余円の五か年継続土木事業を提案し、県会は同案を修正議決し、二一万九〇〇〇余円の本格的な土木事業が施行されることになった。このなかに、九頭竜川築堤、いわゆる春江新堤の費用二万五〇〇〇円が含まれている。翌年の県会では、九頭竜川の治水費を国庫支弁とする内務大臣あての建議や、県下の治水事業計画のために土木事業調査委員を置くことが決議された。積極的な土木政策の実施にあたって、巨額な費用の負担方法や県下全域の治水事業の進め方が県政の課題となり、春江新堤は、長年の運動が実ったものの着工にはいたらず、二十八、二十九の両年には未曾有の大洪水となった。復旧工事に巨費が投じられる一方、二十九年の通常県会で、ようやく春江新堤の工費二万五〇〇〇円が可決された。長さ二六四七間、高さは最高六尺七寸四分、平均二尺三寸九分、上幅九尺、平均敷幅五間半であった。この県会で、足羽川、日野川、佐分利川などの改修の建議も可決されている(『県議会史』一)。



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