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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    二 水害と河川改修
      明治初年の河川管理
 江戸時代、治水事業は原則として各藩の責任で行われたが、幕末の混乱は河川の荒廃をもたらした。政府は、明治元年(一八六八)に治河使を設置し「澱河堤防等十分ニ修覆致シ以後水害ヲ除キ民利ヲ起シ」という方針を示した(行政官布告第九三九)。河川の管理は、二年に民部省に設置された土木司の管下になり、四年には工部省に、七年には新設の内務省に移管された。六年制定の「河港道路修築規則」(大蔵省番外)では三等に分けられた。一等河は「一河ニシテ其利害数県ニ関スル」河川、二等河は「他管轄ノ利害ニ関セサル」河川、三等河は「市街郡村ノ利害ニ関スル」河川および潅漑用用悪水路である。一等、二等河は工事費用の六割を官費、残り四割を民費で負担、三等河は地方民が負担することとし、ここに治水行政の基本が定められた。敦賀県では、七年五月の「民費賦課之規則」(敦賀県第一二〇号)に、二等河として「九頭竜河真名河日野河足羽河佐分利河南北耳河以上八大河」があげられ、三等河は「若越二国支流四十八川ナリ」と記されている。
 十四年十月、福井県では「地方費ニ係ル道路橋梁費支出規則」を布達、翌年には「土木費規則」と改称され、河川と港湾が追加された。「第四条 左ニ掲クル河川、堤防、港湾ノ工事ヲ要スル」時は、基本的には町村で工費を負担することとし、補助金として地方費を支出することになった。同条の第一項では、九分を地方費で負担するものとして九頭竜川、真名川、日野川、足羽川、南川、北川、佐分利川、敦賀港湾、坂井港湾、小浜港湾が、第二項の七分を地方費で負担するものとして滝波川、竹田川、田倉川、天王川、浅水川、魚見川、耳川、笙ノ川、黒河川、関屋川、子生川、田村川、遠敷川、松永川があげられている。第五・六条では、多額の工費の場合の地方費による補助基準を定めている。地方費からの補助を介して、道路・橋梁と同様に、福井県下の河川・港湾管理の統一的な基準が作成されたのである。
 政府は、十四年度から原則として官費下渡金を廃止、不況とあいまって地方民の負担はいっそう大きくなった。当時は鉄道が未発達で、河川利用の舟運が物資輸送の根幹であり、河川行政も洪水防御より舟運確保の低水工事が中心であった。十年代の中ごろから、全国的に大洪水が頻発した背景には、このような事情があった。福井県下でも、融雪期の増水や梅雨期の豪雨、台風にともなう暴風雨などで大洪水が発生し、連年大きな被害をうけた。



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