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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
     一 道路・橋梁
      地域的な道路の開鑿
 地域の町村を結ぶ道路は、「土木費支出規則」の第三条道路への編入によって、地方費から工事費の五分の補助をうけられることとなったものの、道路や橋梁の修繕、新規の開鑿は容易ではなかった。政府は、地域の民力を結集し土木事業を進める組織として、明治十七年(一八八四)に水利土功会の開設を認め、県もその設立を促した(太政官布告第一四号、県甲第六五号)。同年、連合戸長役場が設置されると、水利土功会が各地に設けられた。このころの土木事業は地元の寄付によって着手されることが多く、この組織も関係町村の有力者を議員として運営されていた。遠敷郡内道は二二か村連合の、大飯郡川上道は二〇か村連合の、丹生郡蒲生道は一七か村連合の、吉田郡永平寺道は一一か村連合の水利土功会によって改修が行われている。これらの道は、二十二年に全面改正によって第三条道路に編入されており、町村間の生活と結びついた道路は、まず地域の民力によって開鑿したのち地方費補助の対象にするというしくみであった(県令第四五号)。この改正を十五年のものと比較すると、第一条道路では小牧道と河野道の二道が加えられたのに対して、第三条道路はさきの一三道から二七道に急増しており、その間の事情を反映している。
 このころ、天爵大神という人物が県内の土木事業に尽力している。彼は、愛知県の出身で、本名を水谷忠厚という。岐阜県の矢田川への架橋が、内務卿山田顕義によって認められるところとなり、有栖川宮から天爵大神の号を授けられた。永平寺参詣のため来県し、当時道路の開鑿に熱心であった石黒知事の厚遇するところとなった。彼は、自身が鋤鍬をとって作業に従事し、さらに関係地方の名望家を総裁や隊長、組長に任じ、地域住民を組織して工事を進めた。梅浦道開鑿の際、二十一年五月三十一日の丹生郡大森での集会に招かれた時の「天爵大神奉迎の景況」という記事には、そのようすが具体的に記されている。坂井郡に滞在していた天爵大神は、白衣を身にまとい、差し向かわされた馬にまたがり、その前後には福井県知事の揮毫になる「天爵大神」の旗と「断而行之鬼神避」の旗を立てて出発、清水尻・下天下あたりで、関係諸村の戸長や各村総代は礼服で「天爵大神奉迎者」の旗を掲げて、さらに、最寄りの小学校教員・生徒は校名を記した旗を掲げて出迎えた。集会は大森の引接寺で開かれ、丹生郡長と天爵大神の道路開鑿の演説があった。その際、天爵大神は、自己の来歴と所有の宝物、すなわち皇族や華族、各宗派法主の揮毫や愛用の品を参会者に示し説明している。散会ののち、郡長指名の有志に対して、郡長と天爵大神より再度道路開鑿の方針が示され、ついで賛成者の捺印が求められ、全員がこの事業に承諾をあたえている。このあと、天爵大神一行は、内郡、梅浦、北山、下糸生などへ出張し、九日に坂井郡に戻っている(『福井新報』明21・6・15、18)。
 『高知日報』(明22・1・13)には「天爵大神に県知事の証明書」と題して、二十一年十二月現在で、彼がかかわった福井県下の道路開鑿についての石黒知事の証明書が載せられている。それによれば、松岡道、大野郡阪東外字崎の峻坂開鑿、金津・吉崎間、吉崎・芦原間、永平寺道、丹生郡杉谷坂の開鑿、同郡隠亡岩坂の墾鑿、足羽郡笏谷坂の鑿夷をあげ、当時は福井・芦原温泉間の新道と福井・丹生郡梅浦間の梅浦道の開鑿中であると記している。道路整備は、社会の進展に不可欠であるが、多額の費用を要することと、便利さゆえに地域的な対立を生みやすいことから、天爵大神のような利害を越えた神がかり的な人物の活躍が求められたのであり、時代を反映するできごとであった。



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