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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
     一 道路・橋梁
      若狭・美濃両道の改修・開鑿
 若越縦貫道路の開鑿が、福井県の一体化というねらいをもっていたのに対して、若狭・近江間の幹線道路である若狭道(小浜・熊川・今津間)の改修計画は、地域住民の生活上の必要を背景として進められた。遠敷郡熊川・滋賀県保坂間が最難所で、車道の開通には県境の水坂・海老坂、滋賀県の保坂の掘下げが必要であった。若狭道の改修は明治九年(一八七六)と十三年にも行われているが、二十年十一月、県では、地元有志の請願をうけて、「小浜今津間ノ道路改修ニ関スル諮問」を県会に提案した。この計画は、両県の緊密な協力によって行われた。工事箇所は、福井県分が一八七メートル、滋賀県分が約八キロメートルであったが、若狭側の利用度が高いということから、総工費の四万六三〇〇余円を、福井県側が六分の二万七七〇〇余円、滋賀県側が四分の一万八五〇〇余円を負担して、二十一、二十二の両年度で施工することとなった。この工費のうち約半額の一万三〇〇〇余円は、地元寄付金を予定していたが、小浜町の大火などもあり多額の寄付は容易でなく、予定額中の八〇〇〇余円が不納となった。二十一年十一月の臨時県会では、寄付金額を五〇〇〇余円とし、二万二七〇〇余円を地方税で負担することとなった。着工されたものの、なお資金不足が生じ、翌年十一月の通常県会で五二〇〇余円の追加が行われている(『県議会史』一)。
 福井県と岐阜県を結ぶ美濃道は、区間的には大野道(福井・足羽川沿道・大野間)、ついで穴馬道(大野・穴馬郷間)といわれるものである。大野道は、七年五月には二等道路に、十四年十月には第一条道路となっている。穴馬道の場合は、十七年の県会で第三条道路とする建議が行われた。十八年の穴馬郷二七か村有志の「穴馬道開鑿願」には、十二月下旬から翌五月上旬までは洞穴の中に棲息するようで、「五月以後ト雖モ大野町ヨリ面谷、或ハ大谷村ヘ米塩運搬スル其賃金殆ド原価ノ半バニ及バントス、僅十里許リノ路程ニシテ往復三日余ヲ費ヤサザルヲ得ズ」と記されており、第三条道路への編入と二十年度での開鑿を請願している。同道は、この年の改正で第三条道路に加えられた。(『県議会史』一)
 富田村下唯野・下穴馬村下山間は穴馬道中の難所で、西本願寺明如上人の巡錫もあって、一般郡民や有志の積極的な労力や工費の協力が得られ、二十一年に着工し、二十三年に竣工した。二十二年には、大野道と穴馬道は美濃道と改称され、全道が第一条の地方税支弁の道路となった(県令第四五号)。
 二十六年度からの土木事業五か年計画では、下穴馬村下山・川合間の改修、真名川への君が代橋の架橋、岐阜県境の油坂隧道の開鑿が施工され、岐阜県との往来に供した(『県議会史』一)。



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