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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
     一 道路・橋梁
      越前と若狭を結ぶ道路
 南条・敦賀両郡間の山岳地帯を縦貫して、越前と若狭を結ぶ車道の開鑿は、積年の悲願であった。明治七年(一八七四)五月、南条郡四郎丸と同郡河野浦を結ぶ春日野新道が竣工した。この新道は、五年に河野浦の有志らが敦賀県に出願、六年に着工したものである。従来は今庄より山岳地帯を越えて敦賀と結んでいたが、新路線は、武生より春日野を経て河野浦へ出、船で敦賀港に達するというものであり、道銭の徴収も認められていた。滋賀・石川県時代には、両県間で武生と敦賀を直接結ぶ車道の開鑿が計画されていた。滋賀県では、若狭選出の県会議員らが、若狭地方を縦貫する車道を計画したが着工にはいたらなかった(資10 一―一三八、二―一六二)。
 十八年三月、石黒県令は、総工費一九万三六〇〇余円からなる越前・若狭縦貫の新道開鑿計画を通常県会に提出した。武生より広瀬・春日野峠・太良・元比田・杉津を経て敦賀にいたる幅三間の新道を開鑿、さらに丹後道の椿・岩出・須賀美・吉阪の三嶺を鑿平して幅二間の車道とし、山陰道に結ぶというものである。四月、福井県では、内務・大蔵両省に対して「道路開築費御補助之義ニ付稟申」書を提出して、六万六〇〇〇余円の国庫補助を求めた。それによれば、総工費は二〇万三〇〇〇余円を要し、地方費九万七〇〇〇余円と寄付金三万九〇〇〇余円を見積もっている(資10 二―一六五)。
写真118 春日野トンネル

写真118 春日野トンネル

 福井県では、若越縦貫道を若狭や敦賀地方の人びとの福井県庁や北陸地方への交通の便だけでなく、武生より今庄を経て柳ケ瀬にいたる国道にかえて新国道とする計画であり、全国的な幹線道路の開鑿の一部と位置づけていた。さらに、不景気による窮民への授産という社会事業的な観点からも、この事業の許可と国庫補助を請願している。六月、政府では、並木敷も含めて七間以上の基準には達しないものの、特例として許可した。
 二十二年、県では、嶺北と嶺南を結ぶ春日野道を敦賀道と改称し、全額県費負担の第一条道路とし、従来の木ノ芽峠を経由する道を第三条道路とした(県令第四五号)。二十六年、県会は「南条郡字常久ヨリ敦賀ニ出テ、丹後道ヲ経テ若狭国大飯郡六呂谷ニ達スル間ノ三十里十八間」の国道第一八号線への編入を、内務大臣に請願している。三十七年三月、敦賀道および丹後道は、金沢第九師団と舞鶴鎮守府を結ぶ要路として国道第五三号線となった(内務省告示第一七号)。



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