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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
     一 道路・橋梁
      初期の道路・橋梁の新設
 明治四年(一八七一)十二月、太政官は「治水修路架橋運輸ノ便ヲ興ス者ニ入費税金徴収ヲ許ス」(太政官第六四八)という達を発した。有志や会社の資金など民力で土木工事を起こし、その経費償還のための道銭や橋銭、港銭の徴収を認めるもので、敦賀県でも、この方法で新道の開鑿や架橋が行われた。
 明治六、七年ころに丸岡と大聖寺の有志が、丸岡町から長畝村、中川村、熊坂村、牛の谷村を経て大聖寺にいたる熊坂新道の開鑿を請願した(資10 二―一六四)。新道は北陸新道ともよばれ、従来の北陸道より一里二四町の短縮となり、現在の国道八号線は、このルートに沿っている。敦賀県では、八年五月にこの「車道修築」を許可した。九年九月、新道落成にあたり道銭取立ての許可を石川県に出願、翌十年二月に当局の検査が行われた。四月、丸岡町有志らの再願書には、工事入費と維持費および道銭による償却の見込みが記されている(表153)。一〇年間の道銭徴収が認められたが、秩禄処分などで発起者の資力も乏しくなり、十一年の明治天皇北陸巡幸の際、修繕費の負担ができず、道銭の徴収もとりやめとなった。十年五月までの経費は八四四六円余で、道銭の実収入を差し引き八〇七六円余の負債残高であった。十三年十二月、県では、有志者への資金償還のため、内務省に五二二三円余の補助金支給を申請、許可をうけた。

表153 熊坂新道開鑿費償却計画

表153 熊坂新道開鑿費償却計画
 丹生郡家久村・今立郡上鯖江村間の日野川を横断する北陸道は、舟渡しであったので通行の不便となっていた。六年二月十日、武生町民から「字白川新架橋願」が提出され、敦賀県では「新橋落成ノ上ハ春日野通車道連続シ実ニ便利ヲ得」として大蔵省に上申し許可をうけた。七月に着工し十一月落成、総入費金は一一〇〇円余であった。橋銭は、申請どおり五年間の徴収を認められたが、実際の徴収は四年半であった(「福井県史料」三三)。
 北陸新道や白川橋のほかにも、道路では南条郡四郎丸村より河野浦字王居涅に達する春日野新道、粟田部街道の日野川筋馬上免村粟田部村間(村国村に河道を開鑿)、橋梁では新保道の安治川筋海老助橋や三国道の九頭竜川筋中角橋架橋などが七年から八年にかけて完成しており、この時期は民力による有償の道路・橋梁の開鑿・架橋が盛んであった。
 九頭竜川を横断する北陸道に架かっていた舟橋は、維持費が莫大なことと不便なことから、敦賀県では、総工費一二四一円余で橋幅一丈・長さ一〇二間の板橋への改架を計画し、八年一月二十日に内務省へ稟申、二月に許可が下り、六月に起工し九月に竣工した。工費の一二四一円余は、すべて官費によって支出された(資10 二―一六三)。しかし、十年四月の急水で流橋し、十一年五月に工費四七三一円余で幅三間長さ一〇〇間の橋が再架された。



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