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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
     一 道路・橋梁
      明治初年の道路管理
 新時代の陸上交通手段として期待が大きかった鉄道に比べて、道路政策は概して緩やかであった。政府は、明治元年(一八六八)九月に「駅逓規則」を制定、二年一月には関所を廃止し、さらに、二年四月に民部官、七月に民部省を設置し、道路や駅逓をその管下においた。四年七月には民部省が廃止され、土木司・駅逓司はそれぞれ工部省・大蔵省に移管された。
 五年六月、太政官は「諸街道往還道敷取調」(太政官第一八九号)を出して「明細帳或ハ明細絵図」の提出を求め、同十月には、「道路掃除ノ条目」(太政官第三二五号)を定めて、地方官にその管理を促している。足羽県では、翌十一月に一四則の「掃除規条」(「福井県史料」三七)を発布して、清掃や修繕など道路維持管理の基準を示している。六年八月、大蔵省は「河港道路修築規則」(大蔵省番外)を定めて、河川や港湾、道路を三等に分け、道路では「全国ノ大経脈ヲ通スル」が一等道路に、「各部ノ経路ヲ大経脈ニ接続スル脇往還枝道」が二等道路に、そのほか「市街郡村ノ利害ニ関スル」ものは三等道路とし、さらに修築維持費の負担と府県の権限を定め、道路の管理体制を明示した。敦賀県内では、北陸道が一等道路に、丹後街道、大野道、熊川道(若狭街道)、丸岡道、坂井港道、粟田部道、春日野道、塩津道(近江街道)の八道が二等道路となった(『敦賀県治一覧表』)。七年五月、県では「民費賦課之規則」(敦賀県第一二〇号)を定め、諸事業における官費・民費の区別を示した。道路・橋梁の修繕については、つぎのように記されている。
   一 橋梁 大橋五架建築修繕費 皆官費   但 九十九橋舟橋阪井橋白河橋土橋
         中橋十一架修繕費 十ノ六官費十ノ四民費   但 橋名略之
         一等道路小橋梁修繕費 皆官費   但 北陸道細呂木駅ヨリ板取駅マテヲ云
         二等道路小橋梁修繕費 十ノ六官費十ノ四民費   但 脇往還九個道ヲ云若狭道大野道勝山道
         丸岡道阪井港道四ケ浦道春日野道熊川道疋田道
   一 道路掃除 自費  長町場ニシテ戸数寡少ノ村落ハ一戸七間ヲ掃除シ其余ハ郡中ノ助ケヲ受クヘシ
 九年六月、政府は、道路を国道・県道・里道に分け、それぞれを三等に区分した(太政官達第六〇号)。国道は「一等 東京ヨリ各開港場ニ達スル」「二等 東京ヨリ伊勢ノ宗廟及各府各鎮台ニ達スル」「三等 東京ヨリ各県庁ニ達スルモノ及各府各鎮台ヲ拘連スル」もの、県道は「一等 各府県ヲ接続シ及各鎮台ヨリ各分営ニ達スル」「二等 各府県本庁ヨリ其支庁ニ達スル」「三等 著名ノ区ヨリ都府ニ達シ或ハ其区ニ往還スヘキ便宜ノ海港等に達スル」もの、里道は「一等 彼此ノ数区ヲ貫通シ或ハ甲区ヨリ乙区ニ達スル」「二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該区人民ノ協議ニ依テ別段ニ設クル」「三等 神社仏閣及田畑耕耘ノ為ニ設クル」ものとし、さらに国道・県道については、一等国道は七間、県道は四ないし五間など、道幅の基準を示した。県内では、さきの一等道路が国道に、二等道路が県道に、その他の道路が里道となった。
 十八年二月、国道の等級制が廃止されて、新たに四四線が告示された。北陸道では福井県庁以南が一八号線、同以北が一九号線と定められた(内務省告示第六号)。その後、軍事上の理由から、二十年に東京・鎮守府間、鎮守府・鎮台間などの一六路線が追加されて六〇路線となり、三十七年三月、舞鶴鎮守府と第九師団とを結ぶ路線として京都府余部・高浜・小浜・敦賀・大比田・松森間のいわゆる丹波道・敦賀道が五三号線となり(内務省告示第一七号)、大正八年の「道路法」の制定まで存続した。



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