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 第三章 明治期の産業・経済
   第三節 金融機構の整備
     三 商品流通の拡大
      羽二重・生糸の流通
 絹織物業の勃興に反し、羽二重問屋がきわめて少なかったが、明治二十五年(一八九二)五月に外国商館ローゼンソール商会とメーソン商会が福井での羽二重買付けを開始したため、これに触発されて羽二重問屋がつぎつぎと開業し、流通機構が確立された。二十七年当時の羽二重取引は、外商の産地買付けと羽二重問屋への機業家の持ち込みのほかに福井市に七つ、郡部に二つ成立していた機業家の集会所(小市場)での販売があった(前掲『福井石川両県下機業調査報告』、栃木県『物産視察員復命書』明治二七年)。市日を定めた小市場には仲買(二十五年一七人で拡絹会、三十一年四〇人で同盟会結成)が集まって入札を行っていた。代金支払いは三日後で、仲買はその期限内に品物を処分して支払うことができた。しかし、三十三年恐慌以後は現金取引がさかんになり、延取引も一日間に限られたと伝えられている。仲買から問屋へ持ち込んだ品物については仮手形が振出され、四日ほどあとに現金と引換えられたという(河田貫三『福井県物産誌』、前掲『福井石川両県下機業調査報告』)。仲買の翌日払いと問屋の三日目払いの齟齬は、実際には仲買と問屋間の貸借などで解決していたらしい。また問屋・仲買の見込買いも相当行われていたようである(『横浜市史』四巻上)。
写真117 生糸羽二重商

写真117 生糸羽二重商

 横浜の羽二重輸出は、売込商を介する取引形態がついに確立しなかったという。『横浜市史』第四巻上の分析によると、その実態はおおよそつぎのようである。売込商を介する取引の比率は二十八年に七〇パーセントを割り、三十五年には四〇パーセント以下になっている。外商や邦人輸出商が産地の直属機関や羽二重問屋を介して仕入れる量がふえ、とくに四十年代以降は邦人輸出商が外商を圧倒するかたちで産地買付け量を増大させたのが原因である。薄資の売込商は輸出商や産地羽二重問屋との力関係でも弱い立場にあり、蓄積を推し進めることが困難であった。四十年代以降、外商を圧倒していく邦人直輸出商の中核は、茂木輸出店、高島屋飯田など福井に出張店や力織機工場を設けたものを含めた五店と三井物産であった。これら内商は販路を拡張するため安値で輸出し、その結果、機業家に対して低廉な価格を押しつけ、賃労働者を含めた生産者の利益を奪った。
 二十年代の生糸の供給は横浜市場に大半を仰いでいた。たとえば二十九年に福井県へ移入された生糸は合計一万三三八七箇であるが、このうち一万一八六一箇は横浜積戻糸の送付で占められていた(『横浜市史』四巻上)。それが三十年前後に福井生糸株式会社など多くの生糸商事会社が設立され、生糸産地からの直送ルートが開拓されたため、横浜市場への依存度が低下しはじめた。三十二年末から翌年にかけて、生糸・羽二重価格の急落により生糸商事会社や生糸商らの解散や倒産が続出したが、恐慌を耐えて生き残った生糸商を通して、生糸を各地から移入するという流通機構が定着した。この時期になると、生糸商の下に生糸仲買が明確に分化してきていたようで、小機業家は仲買を介して生糸を購入するようになっていた(前掲『福井石川両県下機業調査報告』)。当時のおもな生糸商として、田中平七(京都)・松島清八・黒田与八・西野源助・松井文助・皿沢松太郎らの名があげられているが、生糸の取扱い量は不明である(前掲『福井県物産誌』)。表152は四十三年に福井駅へ入荷した生糸量である。原料供給地が全国に拡大されている様相が
わかる。当時力織機化がはじまったが、四十五年の一調査は、最有力生糸商であった西野商店が銀行と特約して日歩二銭三厘で資金を借り受け、信用ある機業家に二銭八厘で貸付けていたことを報告している(農商務省『重要輸出品金融及運賃ニ関スル調査』)。生糸商は織物商より資金力にすぐれ、中規模機業家にも授信していたことが読みとれる。
表152 福井駅入荷生糸(明治43年)

表152 福井駅入荷生糸(明治43年)



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