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 第三章 明治期の産業・経済
   第三節 金融機構の整備
     三 商品流通の拡大
      米穀・肥料の流通
 明治二十六年(一八九三)十二月に敦賀、翌年四月に福井、五月に三国にそれぞれ米穀取引所(他の商品も取り扱った)が開設された。だが、定期米相場の売買高は年々減少し、福井は三十一年六月に、敦賀は三十三年六月にいずれも解散を余儀なくされた(『帝国統計年鑑』)。鉄道の開通にともない、沿線の米穀商は正米取引によって米穀を買い集め、東京・大阪を中心とした都市の問屋に鉄道で発送するようになり、取引所の利用が激減したのが、その理由である。このように地廻り的米市場が船舶輸送で連繋した二十年代の米穀市場は鉄道の普及とともに東京・大阪を中心とする東西二大ブロックの市場に編成替えされていったのである。三国取引所は海上輸送に依拠して大正三年(一九一四)六月まで続いたが、三十年代中葉以降、機能は低下していた。
 四十年代の米穀流通は、米穀不足地と過剰地の分化が明確になり、工業の発展にともなう東京・大阪および開拓途上の北海道に代表される米穀不足地へ東北・北陸・四国・九州などの米穀過剰地から鉄道や汽船で米穀が供給される構造になっていた。
 当時の福井県からの米穀移出量は表151のとおりである。凶作の四十、四十四年を除いて二一万石を超えており、十六年の移出量約一二万石の約七五パーセント増という高い伸び率を示している。それは、稲作技術の改良による反収の増大を反映したものである。四十年代に統一された米穀国内市場が形成され、全国的規模での産地間競争が激化するが、福井県の生産農民も「輸出米穀検査規則」により、質・量両面にわたる産米改良を担うかたちで市場競争に参画し、移出量の増大を支えていた。なお、四十二年に敦賀、小浜、鯖江、熊川の四町村で合計七七〇〇石の外国米が消費されているが、どの階層がどのような経済的理由から消費したかなど詳細は不明である(『県統計書』)。

表151 県産米の仕向地別移出高(明治40〜大正1年)

表151 県産米の仕向地別移出高(明治40〜大正1年)
 北海道の鰊肥料は十年代から全国的に普及したが、北陸地方は近畿地方につぐ高い消費地域であった。三国、敦賀両港へ比較的安い胴鰊・鰊笹目など大量の鰊肥料が移入され、米作に施肥された。また、海陸交通の要衝を占めた敦賀は、二十年代は魚肥の集散地として大阪・名古屋と競い合う関係にあった。二十二年に愛知県半田の有力肥料商万三商店は、敦賀の西野六平・常吉から鰊粕を仕入れており、同商店は大阪の肥料問屋だけでなく、敦賀の肥料商とも取引を始めたことを示している(村上はつ「知多雑穀肥料商業の展開」『近代日本の商品流通』)。
 日清戦争後、賃金上昇と産額の減少のため騰貴した鰊肥料に代わるものとして、約半値という大豆粕の輸入が増加した。福井県でも三十三年に敦賀外国貿易汽船会社が牛荘から大豆・大豆粕を直輸入している。しかし、これは損失を出して失敗し、日露戦争後、「満州」産大豆粕の輸入港神戸から移入されるようになった。しかし、四十四年段階でも福井県の大豆粕消費額は二八二万円で魚肥(五四七万円)の約半分である(『県統計書』)。魚肥利用の古い伝統が大豆粕消費の拡大を阻んだといえる。魚肥利用がとくに多いのは敦賀・三方両郡であった。



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