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 第三章 明治期の産業・経済
   第三節 金融機構の整備
     三 商品流通の拡大
      本県商業の特質
 明治期を通じて県内生産物の大半は農産物であり、そのうちでは米・雑穀が主要なものであった。そこへ絹織物が加わった。明治二十年代半ば以降、福井県は群馬県をぬいて最大の羽二重産地(輸出向)となった。明治期の福井県の商品移出入総額は、統計的な制約から算出できないが、県内の主要拠点である福井市の移出入の傾向をみてみよう(資17 第446表)。生糸を移入し、絹織物・羽二重を移出するという貿易にもとづく構造がしだいに明確となり、「管内」移出入のデータが得られる明治三十年代においては、近郊への生糸の移出、絹織物の移入がみられ、周辺町村からの原料と製品の集散地となっていたことがわかる。ただ、羽二重生産関連の商品流通を別格とすれば商品の移出入は、米・雑穀、菜種、菜種油、桐実油などを県外へ移出して、魚肥、呉服太物、主食以外の食料品および生活必需品を移入するという基本構造になっていた。
 このパタンのなかで商品流通は徐々に拡大した。二十年代から三十年代前半まで変動をともないながらも増加傾向を続けた県下三主要港(三国・敦賀・小浜)の移出入額は、三〇年代半ば以降停滞し、かわって鉄道を中心とする陸運が伸びてくる。鉄道による貨物輸送は、日露戦争後急速に拡大していった(資17 第497表)。ここでまず商品流通が、汽船や鉄道の発達によってどのように進展し、変化したかを検討しておこう。
 明治初期の、三国、敦賀、小浜の三港では、北海道、大阪、兵庫などと魚肥・海産物、米穀などについて隔地間取引が行われている。江戸時代中期からの北前船交易の伝統が息づいていたからで、明治期の福井県商業を貫く特色の一つである。九年には三菱会社の北海定期航路の汽船もはじめて敦賀に入港した。海上輸送手段は、和船、西洋型帆船から汽船へと発展するが、敦賀港の主力は三十一年に汽船となり、八一三雙が入港している。そして二年後に県内三港の商品移出入額合計が五〇五二万円と最高額に達している(『県統計書』)。当時、日本郵船会社が西廻りと東廻りの定期航路によって運賃積み輸送を本格化させ、王座の地位を占めていたが、河野浦の右近権左衛門ら北陸の北前船主らも二〜五雙の汽船を所有し、日本郵船に対抗するいわゆる「社外船」として最寄りの港々の運輸を中心に活躍していた(山口和雄「近代的輸送機関の発達と商品流通」『近代日本の商品流通』)。
 鉄道の普及は、汽船による海上輸送の大量化・迅速化と連動して商品流通に大きな影響をおよぼした。その普及状況をみると、十七年四月に敦賀・長浜間が開通し、二十二年には東海道線が全通して、それと接続した。さらに二十九年七月に福井、三十二年三月に富山まで開通した。本州横断鉄道の起点ともなった敦賀は、二十年代、商品の集散地として発展した。北海道の魚肥・海産物をはじめ、北陸・山陰の米穀などが回漕され、港に陸揚げされて、鉄道で京阪神・中京方面にさばかれていたのである。また、羽二重は、鉄道の開通後は福井・横浜間の運送日数が九日から四日に短縮され、運賃は一〇貫目につき一円三二銭から五九銭に低減された(鉄道院『本邦鉄道の社会及経済に及ほせる影響』)。生糸の移入も同様で、羽二重の生産と流通は拡大した。
 三十五年における商品の流通量(金額)を輸送手段別にみると、鉄道が七九パーセントを占め、福井県ではいち早く鉄道輸送の全盛期に入っている。それを県内外別でみると、県内輸送が三五パーセントにのぼり、近距離輸送でも鉄道が活躍している(『県統計書』)。海上輸送は、北海道から積み出される魚肥・海産物、新潟県の石油、それに県下諸港から北海道へ送られる米穀などが中心であった。

表150 福井県の主要な移出入品(明治42年)

表150 福井県の主要な移出入品(明治42年)
 表150は、四十二年一年間の主要商品の流通状況である。最大の移出品は羽二重、最大の移入品は原料の生糸であり、米穀の移出と肥料の移入も重要な地位を占めている。そこで福井県経済を支えた米穀・肥料・羽二重・生糸の四品目をとりあげ、流通機構の実態に接近してみよう。



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