目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 明治期の産業・経済
   第三節 金融機構の整備
     二 金融業の発展
      農工銀行の設立
 明治二十九年(一八九六)四月に「農工銀行法」と「日本勧業銀行法」が制定された。この時期、わが国の産業資本は確立期を迎え、農業と工業の生産資金を円滑にする不動産抵当金融制度を整備することが要請されたのである。農工銀行は長期資金の貸付を専業とする特殊銀行で、各府県に一行ずつ設けられることになった。府県は農工銀行補助法にもとづいて農工銀行株式の約三分の一を引き受け、県金庫事務を委託するなど大きな援助をあたえた。また、農工銀行は長期貸付を行うため農工債券の発行が認められていた。しかし、農工債券の発行は順調に進まず資金不足に直面したため、三十三年二月に早くも手直しが行われ、農工銀行が日本勧業銀行の貸付を代理する「代理貸付」制度が設けられた。
写真116 福井県農工銀行

写真116 福井県農工銀行

 福井県では三十年九月二十一日に知事が福井県農工銀行設立委員二二人を任命した(県告示第一三八号)。委員は県職員二人と県内各地の有力な銀行役員・地主・問屋・政党役員たちであった(資10 二―一五五)。本店を福井市におき、資本金を五〇万円とする定款が十一月に大蔵大臣から認可され、総株数二万五〇〇〇株のうち県の引受け分七五六〇株を除く残りが民間から広く募集された。三十一年七月十三日に福井市毛矢町に創立され、県会議員で憲政党県支部長でもあった竹尾茂が頭取に就任した。しかし、創立総会での役員ポストをめぐるいわゆる「実業派」と「政党派」の紛擾が尾をひいて貸出に着手できず、開業したのは十一月十五日であった(『銀行通信録』)。両派の抗争はその後も続き、三十六年八月の臨時株主総会では福井県も賛成派に回って竹尾頭取の不信任が決議され、竹尾派が訴訟を起こすなど県政上の「抗争の天王山」にまで発展した。なお、福井県農工銀行は三十六年八月に県金庫事務の委託を取り消され、大和田・森田両行が引き継いだ(『県議会史』二)。
 農工銀行の貸付は長期年賦で元利返済ができるなど、農工業者に有利な面があったが、担保となる不動産価格の査定がきびしく、貸付額も過少であり、申し込みから貸出までに時間がかかりすぎるなど役所風の経営ぶりが目立ったという。四十四年三月の農工銀行法改正により、農工業資金の貸付に限定されていたのが、市街地を含む不動産を担保としてどこへでも貸し付けられるようになった。つまり農工銀行はまったくの不動産銀行となったのである。この改正により福井県農工銀行の貸付も増加する傾向をみせた。農工債券は四十五年上期から発行されるようになり、大正二年の発行債券額は四八万円台に達した。資本金は四十五年上期から一〇〇万円(払込六二万五〇〇〇円)に増資され、大正二年末の総資金量は積立金・預金も加えると一二八万円台に達している。これに応じて代理貸付を含めた貸付は四十年末の六八万円台から大正二年末の一六〇万円台になっている(『営業報告書』)。しかし、明治・大正期を通じて支店を一か所も開設せず、堅実というよりむしろ消極的な経営を続け、大正十一年三月に日本勧業銀行に吸収合併された(『銀行通信録』)。



目次へ  前ページへ  次ページへ