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 第三章 明治期の産業・経済
   第三節 金融機構の整備
    一 金融機構の形成
      私立銀行と貯蓄銀行
 明治二十六年(一八九三)に銀行条例と貯蓄銀行条例が施行されるまで、国立銀行以外の金融機関は、国または府県へ届け出るだけで設立でき、経営についてもなんら規制がなかった。これらの金融機関は一括して「銀行類似会社」と呼ばれていたが、そのなかから九年以降に銀行と称するものが現われ、これを「私立銀行」といった。福井県に関係の深い私立銀行は九年三月設立の三井銀行である。十一年に開設された三井銀行敦賀支店は二十七年三月に閉鎖されるまで、国庫金と官公預金を特権的に取り扱い、貸付、荷為替業務などを営んでいた(『三井銀行八十年史』)。敦賀港には第二十五国立銀行と第六十四国立銀行(大津)の両支店があったが、三井銀行敦賀支店は厚い信用を背景に、北海道から魚肥などを移入して近県へ売りさばく敦賀の商人に対して高い日歩の荷為替を取り組んでいたという(『大和田翁』)。
 特権的な三井銀行とは別に、地元でも私立銀行が設立された。十三年十月に坂井郡丸岡に設立された丸岡銀行は北陸三県の私立銀行の最初である。資本金三万円で私立銀行には珍しい、「士族主導型銀行」であった。くわしい内容はわからないが、十九年三月十八日付『福井新聞』には「丸岡銀行の破算一件」という記事が掲載されている。松方デフレの波をうけ、刷新につとめたがおよばなかったらしく、十九年三月に破産した(北陸銀行『創業百年史』)。
 十四年から二十五年にかけ六行の私立銀行が設立されたが、このなかに本多銀行や大和田銀行のように初めから私立銀行として設立されたものと、洪盛銀行、小浜銀行、悠久銀行のように銀行類似会社(洪盛社、鵜羽組、悠久社)から発展したものがある。そして日清戦争後の好況期から銀行濫設期に入り、福井県でも二十七年からわずか三年間に一五行もの私立銀行が設立された。銀行条例と貯蓄銀行条例が設立に拍車をかけたわけで、地主や有力商人の資金が導入された。
写真115 大和田銀行

写真115 大和田銀行

 十六年五月の国立銀行条例再改正と十七年五月制定の兌換銀行券条例により、銀行券の発行は日本銀行に集中され、国立銀行券はしだいに整理されることとなった。そして二十九年三月の国立銀行営業満期前特別処分法により、国立銀行は発券を廃止し、普通銀行に転化することとなった。第九十二国立銀行は三十年二月に第九十二銀行、第五十七国立銀行は同年三月に第五十七銀行、第九十一国立銀行は同年四月に第九十一銀行、第二十五国立銀行は同年十二月に二十五銀行と、それぞれ改称して普通銀行となった。
 貯蓄銀行条例にもとづき、二十七年から三年間に県内に五行の貯蓄銀行が設立された。その最初は二十七年十二月に敦賀町に設立された久二貯金銀行である。設立者は大和田銀行主大和田荘七で、資本金は三万円であった。大衆の信任が厚かったらしく、二十九年には福井市と武生町に支店を開設し、本・支店で預金をふやした(大蔵省理財局『銀行総覧』)。二十九年末の預金は八万七〇〇〇円に達し、同年末の県内貯蓄銀行五行の預金高の七二パーセントを占めた(『県統計書』)。なお、『県勧業年報』によると、二十二年から第二十五国立銀行も貯蓄預金の兼営を始めているが、預金額は専門の貯蓄銀行にくらべてずっと少なかった。



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