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 第三章 明治期の産業・経済
   第三節 金融機構の整備
    一 金融機構の形成
      国立銀行の営業状態
 官公預金を除く「人民預金」には、当座預金、定期預金、別段預金などがあった。別段預金は現在の通知預金・積立預金と特殊な約定の定期預金など雑多なものを含んでいた(大蔵省『銀行局報告』)。『帝国統計年鑑』により、二十年代前半までの四行の人民預金の推移をみると、十四年一年間では、当座預金八二万六〇〇〇円、別段預金三五万五〇〇〇円、定期預金一〇万五〇〇〇円であり、二十二年一年間では、当座預金四七万円、定期預金一九万八〇〇〇円、別段預金一万二〇〇〇円である。当座預金が多いのが目につくが、福井の生糸・羽二重商(第九十二国立銀行が中心)や敦賀の船荷問屋(第二十五国立銀行敦賀支店が中心)の当座預金貸越を前提とした預金の出し入れが頻繁であったことが、その理由と推定される。上述の預金のほか、『銀行局報告』では、十四年上半期から福井県の国立銀行の貯蔵預金が計上され、下半期から第五十七国立銀行と第六十四国立銀行敦賀支店、十五年上半期には第九十二国立銀行のそれぞれのデータが掲載されてくる。運用資金をふやすため、国立銀行としての信用を背景に、零細な大衆預金までも集めようとしたのである。
写真114 第九十二銀行

写真114 第九十二銀行

 国立銀行の資金運用は貸付金(当座預金貸越を含む)と公債所有(発行銀行券の担保分を含む)がおもなものである。貸付金がどの業種向けであったか詳細はわからないが、十九年末では、華・士族へ三五・一パーセント、商業へ三二・二パーセント、農業へ二六・一パーセントがそれぞれ貸し付けられている。二十四年末では、華・士族への貸付が姿を消し、農業への貸付が減少する反面、商業へ四四・三パーセント、工業へ七・二パーセントがそれぞれ貸し付けられ、商工業の急速な発展ぶりがうかがわれる(『福井銀行八十年史』)。また、十四年から十八年にかけてのいわゆる松方デフレ期(紙幣整理期)に県内国立銀行はどのような資金運用を行ったか、詳細は不明であるが、『福井新聞』掲載の第九十二国立銀行の「実際報告」によれば十六年から「期限過貸附金」と「滞貸附金」という勘定項目が特設されている。決算期ごとにその金額はふえ、十七年下期には合わせて一万九〇〇〇円が計上されている。十五年秋に福井県を含めた東海・東山道の民情を視察した巡察使は、「銀行ノ如キハ当時資本ヲシテ悉皆貸出シ実ニ余裕ナキニ至リ貸金返還ノ期既ニ経過スルモノト雖トモ一切之カ返済ヲナス者ナク」と報告している(明治一五年「公文別録」)。「本県金融界の覇王」といわれた第九十二国立銀行も地主らへの貸付が焦げついて回収に四苦八苦したようすがうかがえる(『市橋保治郎翁伝』)。
 国立銀行のもう一つの重要業務に為替業務がある。為替というのは、たとえば福井と東京といった遠隔地間の貸借の決済を、現金を直接輸送することなしに、一定の信用手段によって行うしくみである。その手段は為替手形や代金取立などである。為替による送金方法は、公金にももちろん利用されていた。官公預金への高い依存を反映して、県内国立銀行の公金為替は二十年代前半までは、枚数、金額とも普通為替を上回っていた。このため東京、大阪、京都などの三、四行にかぎられていた為替取組先も、二十年代後半に入るとふえていく。たとえば二十六年末の第二十五国立銀行の為替取組先は、函館、馬関(下関)、岐阜、福知山などの普通為替が加わって一二行にふえている(「実際考課状」)。それでも東京、大阪、横浜など先進地にくらべるとずっと少なかった。荷為替は十年代は微々たるものであったが二十年代に急増した。横浜からの生糸移入と横浜への絹織物移出、および北海道からの魚肥移入など遠隔地間の商品流通が発展したためである。第九十二国立銀行は二十二年に荷為替三八万円を貸し出し一三万円を取り立てている(『県勧業年報』)が、大半は絹織物輸出と生糸の移入であったと推定できる。また、第二十五国立銀行敦賀支店は二十六年下期に北海道から移入された魚肥など海産物約一万円の荷為替代金を取り立てている(「実際考課状」)。
 県内国立銀行の金利は、二十年代まで一年ものの定期預金で年六〜七・五分、貸付金利が年一〜一割五分で、貸付金利は有力な銀行類似会社よりいくぶん低い水準であった(『銀行通信録』)。したがって四国立銀行は、特権的な銀行券発行と官公預金吸収によって低コストの資金を調達し、それを比較的高い利子で貸付に運用できたから、収益率(「銀行株百円ニ対スル純益」)は良好であった。くわしくみれば銀行間にかなりの格差があり、十六年から二十六年までの推移をみると、第九十一国立銀行が一一・五〜二九パーセントと、もっとも高い収益率をあげ、第二十五国立銀行がこれについでいる。第五十七国立銀行は十七年から落ち込み、二十五年まで七〜九パーセントの低い収益率を続けた(『県統計書』)。



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