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 第三章 明治期の産業・経済
   第三節 金融機構の整備
    一 金融機構の形成
      国立銀行の設立
 維新政府は金札(太政官札)の流通促進と商品流通掌握のため、明治二年(一八六九)五月以降東京・大阪・京都をはじめ開港場など八か所に為替会社と通商会社を設立した。為替会社は金札の貸下げを受け、兌換券を発行して通商会社の資金のパイプ役となったほか、貸付・為替業務などを行ったが、第二国立銀行へ発展した横浜為替会社を例外として、営業はふるわなかった。為替・通商両会社とも旧来の株仲間の全国的再編にすぎなかったため、新しい流通機構をとらえることができなかったからである。敦賀為替会社は三年二月に敦賀港の廻漕業者、地主ら一八人が資本参加し、西京為替会社(京都)の出店として設立された。三年六月現在、資金量の三一パーセントを西京為替会社に仰ぎ、出資した海運業者らに過半が貸し付けられ、赤字になやむ小浜藩へも貸し付けられている。六年三月現在の主要貸出先は西京為替会社や出資商人で、旧来の流通機構に依拠した古い体質が露呈している。銀行業の創始といわれた為替会社もこのようにして失敗し、新しい銀行制度が求められた。五年十一月に公布された国立銀行条例は、正貨(銀貨)と兌換する銀行を設けるのが目的であったが、設立されたのはわずか四行にすぎなかった。紙幣の増発がつづき、紙幣に対して銀貨の価値が高かったため、兌換銀行券の発行が不利になったのが、その理由である。この事態から九年八月に国立銀行条例が改正されることになる。

表138 県内国立銀行の株主・払込資本金(明治17年)
表138 県内国立銀行の株主・払込資本金(明治17年)
 ここで国立銀行と深いかかわりをもつ官金取扱いについて述べておこう。慶応四年二月に三井組、島田組、小野組など旧来の特権的な両替商は大蔵省など官庁の公金取扱いを委託され、為替方となった。為替方は国庫金を無利子で預り、それを実際上は貸付などに運用できる立場にあった。敦賀県布令書によれば六年の敦賀県の大蔵省為替方は三井組と小野組で、敦賀港西浜町に三井・小野組出店、小浜安居町に三井組仮出張、福井銕町に小野組名代が置かれていた。七年に小野組が破産し、八年五月現在では三井組だけが敦賀県の為替方であった。三井組は九年三月に私立の三井銀行に改組された。十一年四月に敦賀支店が開設され、国庫金の取扱いを始めている。
 九年改正の国立銀行条例では、正貨兌換を廃止し、資本金の八〇パーセントは公債証書で払い込み、同額の銀行券下付を受けられることになった。これと同時に、士族への俸禄支給を廃止して、俸禄を国債で肩代わりする、いわゆる「秩禄処分」を実施する金禄公債証書発行条例が公布された。このため華・士族は公布された公債で資本金を払い込み、有力商人たちも、値下がりしている公債を買い集めて出資できることになり、国立銀行は従来より容易に設立できることとなった。さらに国立銀行にも官金の取扱いが認められたから、堅実な経営を心がけていれば有利な事業となった。十年からわずか三年たらずの間に全国で一五三行も設立されたのはそのためである。しかしながら、この間多くの「貧乏士族」は公債を安値で手放して無一物となり、貧民や小作人に転落していったものとみられる。
 福井県域では、十年十二月に第二十五国立銀行(小浜)、十一年十月に第九十一国立銀行(福井)、第五十七国立銀行(武生)、第九十二国立銀行(福井)があいついで設立された。設立の中心者は小浜、福井、武生の士族上層であった。表138で明らかなように株主の居住地も、第二十五国立銀行では小浜、第九十一、第 写真113 第五十七銀行
写真113 第五十七銀行

九十二両国立銀行では福井、第五十七国立銀行では武生と、旧城下が圧倒的に多い。管外の株主二四人は東京に住む旧小浜、福井両藩の士族上層、それに敦賀、坂井両港の株主は有力商人と推定される。設立時の資本金は第九十二国立銀行が一二万円で、他の三行はいずれも五万円である。また、店舗の状況は十二年六月現在、支店をもつのは第二十五国立銀行(敦賀支店)だけで、他の三行は本店だけで営業していた(大蔵省『銀行局報告』)。なお、第九十二国立銀行は十六年十一月に日本銀行(十五年十月開業)の代理店となり、敦賀郡をのぞく越前七郡で国庫金の取扱いを始めた(資10 一―一三六)。
 県内国立銀行の資金は二十四年まで官公預金に大きく依存していた。十四年では、四行の年間預金約一六五万円のうち、官公預金の占める比重は二一・九パーセントであったが、二年後の十六年には六九・六パーセントに急上昇し、以後二十四年まで過半を占め続けた(『帝国統計年鑑』)。



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