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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    三 その他の地域産業
      越前和紙産地の発展
 明治初期の越前和紙産地の最初の大仕事は、太政官札(金札)用紙の漉きたてであった。維新政権は福井藩士由利公正の提唱した太政官札の発行と貸し下げという経済政策の実施に踏みきり、慶応四年(一八六八)三月に越前五箇村(今立町)の紙漉業者に太政官札用紙漉きたてを命じたのである。発行額は最初三〇〇〇万両とされたが、二年五月までに発行されたのは四八〇〇万両であった。漉きたてに必要な原料楮は丹後・石見・但馬・長門・周防・信濃・上野・美濃・紀伊から、また雁皮は、伊賀・伊勢・若狭から調達された。見積書では五箇村一日の金札用紙漉きあげ高は二万枚、総舟数二〇〇、一舟の一日分漉きあげは一〇〇枚で、一〇〇枚につき代銀一貫三五〇匁四分、雁皮四貫目、楮八貫目。漉舟は一軒に最高四舟、最低半舟で、三舟以上の漉舟は一四軒あった。漉きたての注文は五回にわたって行われたが、一回目の漉きたてが終わったのは元年六月で、すでに五月から一〇両、五両など五種類の金札が逐次発行されている。金札用紙漉きたての用達が中止となったのは四年七月で、以後灯が消えたように不振に陥ったという(『福井県和紙工業協同組合五十年史』)。五箇村は幕末の福井藩財政の再建に効果のあった藩札用紙漉きたても行っており、太政官札用紙の漉きたては、和紙産地としての信用を全国にひろめることとなった。

表137 今立郡の和紙生産額

表137 今立郡の和紙生産額
 表137は、紙の特産地を形成した今立郡製紙業の発展過程を示すものである。三十年から奉書紙、三十五年から障子紙・光沢紙も製造され、新しい販路をひらきつつあったことを示している。大正二年(一九一三)六月六日の『福井新聞』は、「本県の製紙産額」と題する記事のなかで、今立郡五箇の産地について「販路は近来清国に多く輸出せらるゝに至り殊に昨年は天津、上海行好況を呈し半紙、印刷用鳥子紙、光沢紙約二十五万円を輸出せり」と伝えている。明治四十年の『県統計書』によれば、今立郡の紙産地は全県対比で製造戸数が二五パーセント、職工数が四八パーセント、生産額が八五パーセントを占めている。また、四十二年の農商務省商工局『工場通覧』によれば、原動力を備えた職工一〇人以上の近代的製紙工場の大半は今立郡に集中し、生産する製品も海図用紙・輸出程村紙・免状用紙・印刷用紙など多様化し、新しい需要を掘り起こしている。



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