明治初期の越前和紙産地の最初の大仕事は、太政官札(金札)用紙の漉きたてであった。維新政権は福井藩士由利公正の提唱した太政官札の発行と貸し下げという経済政策の実施に踏みきり、慶応四年(一八六八)三月に越前五箇村(今立町)の紙漉業者に太政官札用紙漉きたてを命じたのである。発行額は最初三〇〇〇万両とされたが、二年五月までに発行されたのは四八〇〇万両であった。漉きたてに必要な原料楮は丹後・石見・但馬・長門・周防・信濃・上野・美濃・紀伊から、また雁皮は、伊賀・伊勢・若狭から調達された。見積書では五箇村一日の金札用紙漉きあげ高は二万枚、総舟数二〇〇、一舟の一日分漉きあげは一〇〇枚で、一〇〇枚につき代銀一貫三五〇匁四分、雁皮四貫目、楮八貫目。漉舟は一軒に最高四舟、最低半舟で、三舟以上の漉舟は一四軒あった。漉きたての注文は五回にわたって行われたが、一回目の漉きたてが終わったのは元年六月で、すでに五月から一〇両、五両など五種類の金札が逐次発行されている。金札用紙漉きたての用達が中止となったのは四年七月で、以後灯が消えたように不振に陥ったという(『福井県和紙工業協同組合五十年史』)。五箇村は幕末の福井藩財政の再建に効果のあった藩札用紙漉きたても行っており、太政官札用紙の漉きたては、和紙産地としての信用を全国にひろめることとなった。 |