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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    二 輸出向羽二重業の勃興
      機業労働と女工
 絹織物業に従事する職工数は、表130のように二十年代半ばから急速に増加し、一〇年間でほぼ倍増している。職工の仕事内容は、1下拵工といわれる製織準備を行うもの(糸繰・糊付・整経・管巻など)、2製織工(いわゆる織子)、3機械工(機械の注油・故障の修繕・機械の保守等)の職種に分かれているが、中心的な仕事である1と2は女工が担当した(撚糸の下拵えはおもに男工が行う)。
 明治三十三年(一九〇〇)では全女工の三分の一が県外からの寄留(そのうちの多くは隣県石川県から)であり、三十四年でも約三割が寄宿職工であったと報告されている。絹織物業の急速な発展はつねに女工の雇用確保の問題を抱えていた(前掲『福井石川両県下機業調査報告』、農商務省『生糸織物職工事情』明治三六年)。

表130 絹職物業職工数(明治24〜33・38〜40年)

表130 絹職物業職工数(明治24〜33・38〜40年)
 機業家による女工の雇用は口約束によるものが多かったが、組合では二十年代から女工雇用の取締規則などを設けていたようで、二十五年八月には粟田部村で五人の女工が敦賀郡の機業家に不当に引き抜かれたとし、その引き戻しを絹織物組合今立部長に依頼している。また、「今立郡同盟会」では、女工の織賃協定をするとともに、賞与規程や褒賞規程を設けており、引き抜き防止や労働意欲の向上に腐心していた(福田幸太郎家文書)。三十年代に入ると職工の養成方法と雇用も組合によって規定が整備された。三十一年に設立された福井県絹織物同業組合の定款の第九章は八七条から一〇一条にわたって詳細な「職工雇入取締及ヒ使用ニ関スル規程」を設けている。そこでは、機業家は女工を雇用する場合、契約証を交わすことになっており、その写しを組合に届け出て成業証の交付を受けることになっていた。福田幸太郎家文書には粟田部地方(今立郡第二部)の成業証下付願の控が残されており、三十年代には契約雇用もかなり普及していたと思われる。
 表131は三十四年における職工の勤続年数をあらわしている。勤続三年未満の者が全体の約八割を占め、さらにそのうち一年未満の者が四割を占めており、職工の異動は激しかったといえる。しかし、羽二重の品位向上は女工の熟練にまつところが大きく、組合では勤続年数の長い者や優秀な技術の保持者の褒賞に熱心に取り組み、その授与式には知事が臨席するなど盛大に行われていた。機業家にとっては「機業ニ従事スルモノハ平常職工ノ養成ニ注意シ、永ク勤続セシムルノ方法ヲ講セサル可ラス」ということが大きな課題であった(山村喬家文書)。
 また表132により、三十四年の職工を年齢別にみると、全体の約四分の三が二〇歳未満の女工であり、なかでも一四〜二〇歳までの女工が全体の約四割を占め、製織女工の中心であった。そして二〇歳以上と一〇歳以上一四歳未満の女工がそれぞれ全体の約四分の一を占め製織に従事していた。また、一四歳未満の年少の女工には、見習生とともに下拵えや補助的な仕事に従事する者もかなりいたと思われる。

表131 職工勤続年数(明治34年)

表131 職工勤続年数(明治34年)



表132 年齢別職工数(明治34年)

表132 年齢別職工数(明治34年)
 それでは女工の労働時間や休日などはどのようになっていたのであろうか。三十六年三月に刊行された農商務省商工局『生糸織物職工事情』は「本報告ハ明治三十四年中ノ調査ニ係リ」とされており、全国の主要産地や機業場の職工労働に関する詳細な報告書である。そのなかで福井県の羽二重業の労働時間として、福井市の山口工場(職工六七人)と土田工場(職工三〇人)があげられている。両工場とも始業が早朝の午前五時、終業が夜の午後九時の一五時間労働であり、休憩時間は昼の食事時間三〇分のみであった。休日は、正月や盆、節句、祭、報恩講などのときには一斉休業をしていたが、あとは女工が個別の事情でとっていた。福田幸太郎家文書の三十年「職工出勤簿」によれば、女工によって出勤日数に大きな差があり、九月などは一日も休まない女工もいた。
 女工の賃金支払方法は、製織の出来高払いであった。しかし、糸繰、管巻などの下拵えの仕事に従事する女工や男工は、日給または月給の者もいた。前掲『生糸織物職工事情』によれば、平羽二重の幅尺五寸長一二丈物一本を織るのに四〜五日かかり、織賃は一円〜一円一〇銭であったとされている。したがって、職工の一日平均賃金は「男工上四〇銭中三〇銭下二五銭、女工上三三銭中二〇銭下一五銭」としており、男工は一日三〇銭未満が、また女工は一日二〇銭未満の者が大多数であった。これに加えて、製額賞与と特別賞与の二つがあり、前者は一か月織高四本として、四本を織上げたものは増金二五銭、それ以上のものは一本につき一〇〜一五銭の増金をするものである。後者は製織の品位に関する賞与であり、松印、鶴印を多数占めたものには一本につき一〇〜二〇銭を給与するというものであった。
 このように、女工が長く機業場に勤務し、熟練した織工に養成されることが機業家には不可欠な条件であり、また組合も福井羽二重の評価を高めるためにさまざまな規程を設けていた。しかし、その規程は女工取締りの側面が強く、また不衛生な労働環境のなかでの長時間労働であり、女工の労働者としての権利はほとんどかえりみられなかったのである。



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