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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    二 輸出向羽二重業の勃興
      福井県絹織物同業組合と製品検査
 明治三十三年(一九〇〇)に福井県の絹織物業を調査した『福井石川両県下機業調査報告』は、かなり批判的な報告書となっているが、福井県絹織物同業組合に対してだけは「其基礎強固ニシテ且ツ其範囲甚タ広ク、能ク組合ノ組合タル本分ヲ尽シ、同業者ノ利益ヲ増進スル」と述べ、全国にも例をみないものであると評価している。事実、福井産の羽二重が横浜や諸外国で信用を高めるうえに、同組合は大きな役割を果たしていた。
 十九年七月、葛巻包喬はじめ有志は粗製濫造を防止するため、十七年の「同業組合準則」による「日新織工組合」を結成した。発足時の組合員は葛巻組長以下山口喜平・水野勇次郎・富田知剛・竹谷彦平らわずか八人であったが、翌二十年五月には絹織物業組合と改称し組合員数も約八〇人に増加した。草創期の組合はしばしば規約改正を行っているが、二十一年十一月には福井県物産陳列場を借用し組合事務所とし、二十二年三月には組合員が四〇〇余人に達したとされている。
 その後、二十五年には製造戸数や生産額において前年比二倍以上の急成長をとげると、羽二重の品質確保がより大きな課題となり、県も製品検査に対して一〇〇〇円(翌年から三〇〇〇円に増額)を補助するとともに、「絹織物同業組合取締規則」を布達し、組合組織の確立と検査方法のいっそうの充実を要求した(県令第五七号)。この時、製品検査結果の品位を示す松竹梅の三等級制度を整備し、この組合証票のない製品の売買を禁止した。福井県絹織物同業組合『三十五年史』は「本県羽二重の声価を発揮したるは此証票の光彩に職由する」とし、また「福井羽二重界の連隊旗なり」とも述べているが、たしかに二十年代の横浜において、この組合証票で売買されているのは福井産羽二重のみであった。
写真108 織賃表

写真108 織賃表

 さらに翌二十六年六月には従来練工場で行っていた検査方法を改め、福井市に検査所本所を、武生・粟田部・鯖江・丸岡・大野・勝山・小浜に出張所を設置し、練工場より製品を運ばせてそこで検査を行うことにした。
 こうして羽二重検査はその体制を整備することになるが、生糸のように器械検査ができず、糸質の良否・織方の巧拙・精練の精粗などに検査基準を設けてはいたが最終的には検査員の経験(肉眼)が頼りであったため、ともすれば検査の不平等性が問題となった。そのため二十八年には七検査所を廃止して、あらためて出張所とし二か月交代で検査員を派遣するシステムとし、機業家や練業者との癒着を断とうとした。また、三十年には福井市に近接してはいたが羽二重生産量の多い森田と松岡にも出張所を設けた。
 このような製品検査制度の充実と技術改良により福井羽二重への評価も高まっていった。たとえば二十六年のシカゴ世界博覧会には福井県から三〇人が四三七疋の羽二重を出品し、うち一四人が受賞した。また、二十八年に開催された第四回内国博覧会に一〇一人が一三九疋の羽二重を出品し、半数の五二人が入賞し、さらに福井県産羽二重および福井県絹織物同業組合規約に対しても、特別に名誉賞銀牌が授与された。このほか同組合は、二十九年六月に杉田定一と村野文次郎を米国および欧州の海外市場調査に派遣し、三十二年には諸新平をイタリア・フランスに派遣して絹織物業を視察させている。さらに、同三十二年には組合推せんにより農商務省の補助を受けた岡田源吉がアメリカへ、高島篤治が中国へ、中林庄一がフランスへ実業練習生として、また、松原栄がロシア・韓国に商況視察員として派遣されており、同組合は製品検査だけでなく技術改良や市場拡大にもつとめていた。
 三十年四月に「重要輸出品同業組合法」(法律第四七号)が公布、さらに三十三年四月に適用範囲を国内向けにも拡大した「重要物産同業組合法」が公布されたことにより、福井県絹織物同業組合は規約改正を行い、組合への強制加入や取締規定の違反者への過怠金徴収などの法的根拠をもつようになった。
写真109 羽二重宣伝のハンカチ図柄

写真109 羽二重宣伝のハンカチ図柄

 三十六年には羽二重需要の拡大に乗じて、「土場羽二重」と呼ばれる余分の水分を含有させた製品により不当な利益を得るものが多くなり、海外からの苦情が続出した。組合は「標準量目記入法」を定め乾燥の十分でないものには現在量目からマイナスの量目を記入させた。また、四十一年九月からは製品検査方法を検査員二人による合議検査とし、福井県産羽二重の、ともすれば起こりがちな海外からの苦情を一掃しようとした。さらに四十二年四月からは従来組合が行ってきた製品検査が県営事業に移管され、新しく設置された福井県輸出織物検査所で検査が行われることとなった。同検査所は福井市に本所が、鯖江・森田・勝山に支所が、武生・粟田部・松岡・大野に出張所が置かれ、林精一所長以下四〇余人の所員をようしていた。四十四年には農商務省が「輸出羽二重検査規程」を訓令するとともに、羽二重検査の統一をはかるため国庫補助(福井県は約一万円)を行った。これにより福井県輸出織物検査所も福井県輸出羽二重検査所と改称され、所員も五〇人に増員された(前掲『三十五年史』、福井県『羽二重機業ノ沿革』)。



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