十年代の後半には県内に一五〇人前後の生糸商がおり、そのなかには江戸時代以来の生糸商とともに、奉書紬や傘地などの絹織物生産が増加し、新しく卸・仲買商を始めた者もいたと思われる(『県統計書』)。二十年代に入り羽二重生産が開始されると、需要が急増し横浜から大量の生糸がおもに荷為替で送られてくることとなった。その荷為替決済の便宜のため、第九十二国立銀行は生糸現物の取引所となった。荷受生糸商は、行内で注文をとり仲買商、機業家に手渡すことになり、また自らが羽二重製織に従事した。規模の大きな機業家は、生糸商と直接取り引きしたと思われるが、製品販売後にしか決済ができないような資金力の乏しい零細な機業家の広範な存在が、生糸商をして羽二重商と兼業させることとなった(資17 「解説」)。
二十年代末には、ますますふえる生糸需要に対処するため、生糸商のなかには商事会社を組織する者もあらわれた。明治二十九年(一八九六)には福井生糸株式会社が設立され、以後好景気とも重なり翌三十年設立の南越生糸会社のような生糸商事会社が多く設立された。しかし、好景気のなか、生糸の思惑買いに走る会社も多く、ひとたび三十三年恐慌を迎えるとその多くが倒産した。また、二十年代には生糸商と羽二重商の兼業者が多く、絹織物同業組合にも絹織物商として加盟していたが、三十年代に入るとその分業化が進み、三十二年には小川喜三郎を組長とする生糸商同業組合が結成された(四十一年解散、生糸商同盟会を結成)。
一方、二十年代初め羽二重生産が開始されると、おもに生糸商が羽二重商を兼ねることにより製品の販売が行われた。取引きが増加しはじめた二十三、四年には羽二重商の問屋・仲買の分業も明確になり、前者の小川喜三郎、黒田与八ら一四人は二十四年に「絹盛会」を組織し、後者も二十五年には「拡絹会」(三十一年に同盟部、三十五年に同盟会と改称)を組織した。また、二十五年にはローゼンソル商会およびメーソン商会が福井市に邦人名義で出張所を設け、続いて横浜・京都の問屋にも出張所を出すものが多くなった。メーソン商会などでは郡部を巡回して羽二重製織の奨励も行っており、このような販売機関の整備が羽二重生産の飛躍的な発展を可能にした(前掲『三十五年史』、『福井石川両県下機業調査報告』明治三三年)。 |