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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    二 輸出向羽二重業の勃興
      機業家と出機
 また、明治三十三年(一九〇〇)恐慌を画期として、機業家による「賃織業」支配がある程度みられるようになる。同三十三年の『福井石川両県下機業調査報告』には、機業家が自分の工場でだけでは問屋の注文に応じきれない時や、将来の好況を見込んで在庫を確保したい時、「自ラ機具ヲ買求メ之ヲ或織工ニ貸付シ、且ツ要スル糸ハ悉皆下拵シテ渡シ、唯一定ノ賃銀ヲ以テ織ラシムルコトアリ」として、これを「出機屋ト云フ」と述べている。福井県における賃織業は機業家の「出機」であった。
 この「賃織業」に関しては、三十七年九月に農商務省訓令第二六号が出され、翌三十八年からの『農商務統計表』や『県統計書』には織物業の諸統計が「工場」(十人以上ノ織工ヲ有スル機業場)「家内工業」(主トシテ家族相集マリ十人未満ニテ機業ニ従事スルモノ)「織元」(原料ヲ仕入置キテ賃織者ヲシテ機織セシムルモノ)「賃織業」(他人ノ原料ヲ受ケテ機織スルモノ)に区分して掲載されるようになる。ただ、「工場、家内工業、織元、賃織業ノ互ニ相兼ヌル場合ニ於テハ主タルモノ一ニ就キ相当欄内ニ記入スヘシ」ともあるように、この四つの区分を厳密に行うことは難しかったようである。

表127 輸出向羽二重業の郡市別賃織業戸数(明治38〜大正1年)

表127 輸出向羽二重業の郡市別賃織業戸数(明治38〜大正1年)
 福井県の賃織業は、輸出向羽二重に限ってみても表127のように、機業戸数(職工数は一戸平均ほぼ一人)は三十八年以降も四十年代まで増加傾向にある。しかし、賃織業の織機数・職工数は全体の約一割前後であり、三十九年のみ記載のある生産額においても全体の八・四パーセントであり、福井県羽二重生産のなかで大きな比重は占めていない。この福井県の賃織業は、大規模な織元との関係で存在したとは思われず、機業家が女工経験者などに織機や原料糸を提供するかたちで行われるのが一般的だったようである。また、郡別にみると、大野郡にはほとんどみられず、丹南三郡と坂井郡に多く、福井市、足羽・吉田両郡にもかなりの賃織業が存在した。さらに、この郡市別戸数を年次別にみていくと、各郡ともその変動が著しく、激しい景気変動に対応するための機業家の生産調整的な役割を担わされていたと考えられる(『県統計書』)。



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