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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    一 草創期の絹織物業
      新技術の導入
 明治維新以後、日本の織物業の展開に大きな影響をあたえたものに「バッタン」や「ジャカード」などの新技術の導入があった。飛杼装置であるバッタンの導入により、よこ糸を通す作業が画期的に早くなり、またジャカード(経糸開口装置)の導入で紋紙(パンチカード)を使って模様を織る作業が機械化されることになった。
 すでに幕末期、福井藩は佐々木権六を米国に派遣し織機二台を持ち帰らせたとされているが、明治四年(一八七一)には旧福井藩士由利公正がヨーロッパより数種類の絹織物を持ち帰り、酒井功(旧福井藩士)に対してこれを研究し奉書紬の改良発達をはかるよう命じた。
 京都府はフランスに伝習生を派遣するとともにジャカードとバッタン機を購入し、七年四月の京都博覧会に陳列して広く機業家に公開した。また翌八年一月には工場を開いてこれら織機の使用法を伝授した。これに対し、酒井功は敦賀県庁に京都への伝習生派遣を請願し、同年橋本多仲・細井ジュンの県費派遣が実現した。また翌九年七月には敦賀県勧業課長伊藤真(旧福井藩士)は染色技術の重要性を指摘し、村野文次郎を伝習生として京都に派遣し、さらに酒井の建議をうけ、バッタン機二台の県費購入も実現した。
写真105 織工会社

写真105 織工会社

 しかし、九年八月に敦賀県が消滅したことにより、県費による新しい織物技術の導入施策は一頓挫をきたすことになり、伝習生も修業半ばで切上げを余儀なくされた。その後村野だけは石川県から染色業研究のため東京へ派遣されるが、福井での新技術導入による絹織物業の新分野開拓はおもに士族を中心とする民間人の手に委ねられることになった。すなわち、翌十年に酒井功は、石川県から旧敦賀県購入のバッタン機を借りうけ、村野近良(文次郎の父)や緑川祐之進、野路平八郎らと福井毛矢町の石川県勧業分試験場で傘地の試織を開始したのである。
 さらに、酒井・村野・富田四方介・長谷部弘連らの士族一四人が出資して「織工会社」を組織し十年四月、毛矢町に長屋一棟を借りうけ、織機一〇台を備えて開業した。役員は社長村野近良、差配人緑川祐之進、織工教師細井ジュンとし、当初は綾織ハンカチーフと傘地を製織した。しかし、職工の未熟と機具等の不備により精良品の製織はできず、会社経営は不調であり、この傾向は十七年九月に士族授産資金四〇〇〇円の貸下げを許可された後もあいかわらず続いていた。
 このように織工会社の経営はけっして順調ではなかったが、同社から製織法の伝習をうけた葛巻包喬、戸枝フサらが、十四年ころよりハンカチーフや傘地などの製造を開始したように、新技術の導入による福井市街での絹織物業の発展に果たした役割には大きなものがあった(福井県『羽二重機業ノ沿革』、前掲『三十五年史』)。



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