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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    一 草創期の絹織物業
      福井市街の奉書紬
 明治維新以前、越前の農村部では麻・木綿布が製織されていたが、福井市街では奉書紬などの絹織物が盛んであった。福井藩も幕末には三宅丞四郎を機業総代に任命し、市内の機業家を監督させた。また、三宅自らも藩から建物を借りうけ職工数十人で絹織物工場を営んでいたといわれる。さらに福井藩は三宅を文久二年(一八六二)に殖産興業策として設立していた物産総会所の肆長に任命するなど、奉書紬を中心とした絹織物業の振興をはかっていた(福井県絹織物同業組合『三十五年史』)。また、明治二十一年(一八八八)の福井市街の一五絹織物工場(職工一〇人・資本金一〇〇〇円以上)のうち三宅丞四郎工場をはじめ八工場が創業年を幕末期としている。このことは福井市街での幕末期の奉書紬生産の隆盛を推測させるとともに、これら八工場は二十五年の『勧業年報』にも記載があり、奉書紬から羽二重への転換が行われたことを示している(資10 二―八一、『県勧業年報』)。
 四年の廃藩置県、同九年の秩禄処分が行われると奉書紬の生産は士族授産事業としても注目されはじめた。足羽県下において奉書紬の生産は一か年約一万疋(約六万両)であったものが、十四年には四万五〇八〇疋にまで増加している。以後十五年に四万五〇〇疋、十六年三万五六三三疋と松方デフレの影響をうけ生産額を減少させ、さらに二十一年には二万四五四三疋となるが、いぜんとして生産額では約一二万円と絹織物産額の二分の一を占め、また羽二重やハンカチーフ産額の二倍以上あり、絹織物類のなかでは首位を占めていた(「府県物産志」、『県勧業年報』)。



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