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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    二 輸出向羽二重業の勃興
      羽二重輸出と国内産地
 明治十年代の末から増加しはじめたわが国の絹織物(絹製品を含む)の輸出は、二十年代に入ると急速な発展をみせ、二十年代半ばには茶や銅の輸出額を上回った。以後三十年代に入ると輸出が急速に増加する綿糸や綿織物とともに、明治後期を通じて絹織物は、生糸につぐ重要輸出品としての地位を占める(『本邦主要経済統計』)。総輸出額に占める絹織物の比率は、二十年代後半からほぼ一〇パーセントを上回り、ピーク時の明治三十七年(一九〇四)には一三・七パーセントに達する。以後、絹織物の輸出額は大正初期まで停滞をみせ、一方では生糸や綿糸・綿織物の輸出額増加のため、その比率をやや低下させ一〇パーセント以下となる。アメリカにおける絹織物工業の発展が、日本の生糸輸出を増加させるなか、絹織物の輸出を減退させたといわれている。
 つぎに絹織物輸出の中味をみると、二十年代前半の輸出増加は、絹製ハンカチーフを中心とする絹製品が担ったとされるが、二十五年以降絹織物が輸出の主軸となり、そのなかでも羽二重が圧倒的比重を占めるようになる。すなわち、絹織物輸出額に占める羽二重の比率は、二十四年には約三〇パーセントであったものが、二十七年に五〇パーセントを超え、四年後の三十一年には七一・五パーセント、ピーク時の三十七年には八四・五パーセントにまで達する。以後その比率は減少傾向をたどるものの、大正初期まで七〇パーセント台を維持することになる。
 このような羽二重生産を支えたのは二十年代前半までは、足利・桐生の産地であり、二十年代後半から福井県、石川県、やや遅れて福島県が急速にその生産量を増加させる。なかでも福井県の羽二重生産の急速な発展にはめざましいものがあった。

表124 絹織物生産額

表124 絹織物生産額
 福井県の絹織物産額の推移をみると、十八年には、六万七〇〇〇余円で第一〇位、全国産額のわずか一・八パーセントにすぎなかったが、二十一年には七位に、二十三年には三位、二十七年に二位と躍進を続け、三十六年に一位になり、翌三十七年には全国の三二・八パーセントを占めるまでにいたった(表124)。さらに、このような絹織物生産の躍進を支えた羽二重生産の推移をみると、福井県は、早くも二十七年には全国羽二重生産額の六〇・二パーセントを占め、以後石川県や福島県などの進出があるためやや比率を下げるが、大正二年(一九一三)までほぼ四〇〜五〇パーセントを占め、首位の座を維持する。このことが、福井県をして広く巷間に「羽二重王国」と呼ばしめたのである。また、このような福井県の羽二重業の急速な成長の理由として、二十七年四月に福井の羽二重業を視察した栃木県の木村半兵衛は、知事への復命書のなかで「福井人ノ其業務ニ勤勉ナル恰モ馬車ノ馬ノ如ク、直前直行左右ヲ顧ミズ羽二重ト生死ヲ共ニシ」と述べていた(栃木県『物産視察員復命書』明治二七年)。



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