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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    五 水産業の発展
      出稼ぎ漁業・移住漁業
 明治十年代から大正期にかけて、越前漁民による北海道への出稼ぎ漁業が盛んに行われた。明治二十四年(一八九一)の『水産事項特別調査』によれば、福井県からの出稼ぎ船数は五八艘であり、大半は北海道沿海への出漁であった。坂井・丹生郡の漁民は、春期には渡島半島の江差から小樽、道北の宗谷・利尻島などの日本海沿岸でのニシン漁、夏期には後志地方・函館地方などでのイカ漁、冬期には釧路地方でのコンブ採藻・後志地方岩内などでのタラ漁に従事している。三十六年には、坂井郡八八人・丹生郡三一八人が北海道でのニシン刺網・建網漁に漁夫として雇われており、また、坂井郡二二艘六〇人・丹生郡三六艘六四人がイカ釣漁に出漁している(『福井北日本新聞』明37・6・3)。
 明治中期の北海道のイカ釣漁は、おもに函館沿海で行われており、北海道外の漁船が多く出漁していた。「明治二十九年函館烏賊釣漁調」によれば、北陸方面から多数のイカ釣船が函館で操業しており、そのなかで一番多いのが越前からの出漁で、六八艘六四三人にのぼる。これは、北海道外からの出稼ぎ漁船の四分の一強にあたる。川崎船とよばれた一一、一二人乗りの大型和船で、春に函館にいたり、秋のイカ釣漁期の終了後越前に帰るという操業形態がとられていた(『函館市史』)。
 出稼ぎののち漁民として北海道に定着する、あるいは漁業移民として北海道に渡る越前出身者も数多くいた。二十五年から三十四年の一〇年間の福井県出身者年平均漁業移住者数は七三二人であり、この数は、青森・石川・秋田などについで県別出身者数の第六位にあたる(「北陸三県および新潟から北海道漁業地域への移住・定着について」『北海道漁業研究』一二)。
 越前出身者が漁業移住者としてまとまって漁場開拓に従事した事例として岩内町があげられる。岩内町へは、十五年ころから越前からの漁業移住が始まった。『岩内町史』の「明治時代の鱈・スケソ釣親方人名」には、「越前衆」として五三人の名前が記載されている。庄内・越後・越中・津軽・能登出身者が合わせて二二人であることを考えると、「越前衆」の多さが目立っており、彼らの多くは、丹生郡国見村鮎川(福井市)からの移住者であった。岩内のタラ・スケソ延縄漁業の隆盛を担ったのは、越前出身者であったといっても過言ではない。
 道北の利尻島に移住した漁民は、坂井郡出身者が多かった。二十五年の利尻島移住戸数一六四戸のうち、福井県からの移住戸数は二〇戸(坂井郡一二戸)で、北海道本土・青森についで多い。また、二十九年の利尻島鬼脇・石崎・仙法志村への移住戸数一六九戸のうち、福井県からの移住戸数は一六戸(坂井郡一四戸)で、北海道本土・青森につぐ数である(「離島社会の形成過程について(二)」『北海道開拓記念館調査報告』二四)。
 北海道庁所蔵の「免許漁業原簿」によれば、出稼ぎ・移住という形態での北海道への漁業進出以外に、漁業権を獲得して漁場持になった人びともいた。漁業法施行と同時に、福井県人がニシン定置漁業権を獲得したのは宗谷郡で、大野郡下庄村の前田五郎が三ケ統、苫前郡で坂井郡細呂木村の坂井新右衛門が三ケ統、枝幸郡で、坂井郡雄島村の高山由太郎が七ケ統、同村の毛海幸吉が一ケ統、利尻郡で、坂井郡雄島村の大家善太郎が四ケ統、同村の大針エンが一ケ統、坂井郡北潟村の坪田伊三郎が一ケ統である。その後明治末までに、苫前郡で、坂井郡雄島村の中奥彦太郎がイワシ定置漁業権を三ケ統、枝幸郡で、高山由太郎がカレイ定置漁業権を二ケ統、利尻郡で大針エンがニシン定置漁業権を一ケ統、坪田伊三郎が同漁業権を一ケ統、新たに免許を獲得し、大家善太郎は三ケ統のニシン漁場賃借権を得ている。大正十年代の利尻郡で、新たな免許あるいは売買・賃借でニシン定置漁業権を獲得したのは、坂井郡雄島村滝野善六・芳男が一三ケ統、大家善太郎が二ケ統、大針エンが一ケ統、坪田伊三郎が二ケ統、同郡大関村友田伊右衛門が一ケ統である。このように道北で定置漁業権を保有した福井県人には、坂井郡、なかでも雄島村の人びとが多い。漁業権者となった雄島村の人びとは、おそらく北前船主・船頭か、あるいはその関係者であると考えられる。北前船のもたらした利益と情報・人間関係をもとに彼らは漁場を手に入れたのであろう。このほか、利尻島在住の福井県出身者がニシン定置漁業権四ケ統を手に入れる際、敦賀の大和田荘七が四万円を融資し抵当権を設定していることが注目される。
写真104 免許漁業原簿

写真104 免許漁業原簿

 『岩内町史』には、岩内へ越前漁民がはじめて移住した原因を、「明治十二年頃越前地方の凶作凶漁で、住民が困窮の極に達し」たことにあると記されている。越前沿海の漁場の狭隘さ、当時の漁法・漁船では一年のうち二、三か月操業不能で、収入が途絶する生活困難があったことを背景として、出稼ぎ漁業・漁民移住が行われた。そして、二十年代のニシン漁業の隆盛が、越前漁民を地縁・血縁を頼りに北海道へと駆り立てる大きな原因になったものと推測できる。また、イカ釣漁などの出稼ぎ漁業を経て、北海道に定着したケースも数多くみられたと考えられる。
 三十年代後半から、福井県でも朝鮮海域への出漁が始まった。沖合漁業奨励のために、県費で建造した改良漁船を漁業者に貸与し、三十七、八年度に朝鮮海域での操業試験を行っている。その結果、この操業試験が有望であることを認め、県は三十九年「遠洋漁業奨励金下付規定」を制定し、同海域への出漁船に対し補助金を下付することにした。四十一年には日韓漁業協定が結ばれ、朝鮮沿岸全海域で日本人による操業が可能になったことと、この協定と同時に発布・実施された韓国漁業法によって、日本人にも朝鮮人同様の漁業権を獲得することができるようになったことなどがあいまって、坂井・丹生・南条郡からも同海域への出漁船が増加した。四十二年から大正八年までに福井県漁民が獲得した漁業権は三件である(『朝鮮水産開発史』)。
 明治四十二年、林朝鮮統監府技師が来県し、県下各地で移住漁業奨励についての講話を行った。これを契機として、朝鮮国内に県水産組合が管理する「補助」移住漁村が建設されていった。四十三年度には、移住漁業奨励金一五八〇円が県費として支出され、慶尚南道方魚津に八戸の移住家屋が建設された。そこに南条郡河野村甲楽城の橋詰三次郎ら一〇余人が移住し、サワラ・サバ漁業に従事した。四十四、五年度には、咸鏡北道清津に坂井郡鷹巣村和布の山下初五郎らのための移住家屋が五戸建設された。大正九年には一〇戸、その後鷹巣村漁民五〇人が来住したため、同十三年末には三〇戸に増加した。清津への移住者は主としてイワシ・サバ漁業に従事したが、清津での移住漁業は、指導者である山下初五郎の死後振るわず、県費補助も打ち切りとなり衰退していった。慶尚北道甘浦には、大正三年丹生郡四ケ浦村竜野三之助らが移住し、手繰網・カニ刺網漁業に従事する一方カニ缶詰工場を経営した。さらに、六年には機船底曳網漁業を開始するなど、甘浦における日本人経営の漁業の中心勢力となった(資11 二―三七)。各県が競い合うようにして建設した移住漁村は、結局ほとんど失敗に終わるが、福井県の場合も同様であった。その要因として、漁獲物の日本向け輸送施設の未整備、朝鮮人漁業者の漁場進出による漁獲高の減少、資金・指導者不足、朝鮮総督府が漁業権の許可に統制を加えたことなどがあげられる。



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