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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    五 水産業の発展
      水産行政の進展
 明治十九年(一八八六)五月、「漁業組合準則」(農商務省令第七号)が公布され、漁業従事者に組合設立を義務づけた。「同準則」にもとづく組合は二つに分けられ、第一類は、業種別組合であり、第二類は、地域別組合であった。そして、組合の目的は、隣接町村間で漁場調整を行うとともに水産資源の保護につとめること、さらに、水産業の発達を促進することにあった。
 福井県では、二十年で二組合、市制、町村制施行後の二十四年末で、表119のように一〇組合が設立されている(『県勧業年報』)。これらの組合は、すべて地域別組合であり、一村で構成されたものから二郡にまたがるものまであった。

表119 漁業組合準則にもとづく漁業組合(明治24年)

表119 漁業組合準則にもとづく漁業組合(明治24年)
 敦賀郡漁業組合は、十九年九月に設置願が出されているが、敦賀郡では「漁業組合準則」公布以前に、十七年の「同業者組合準則」にもとづく敦賀郡西浦組漁業組合が設立されていた。両組合の規約はよく似ており、「漁業組合準則」にもとづく漁業組合は、後述の三十四年公布の「漁業法」にもとづく漁業組合とは異なり、同業者組合的性格をもっていた。敦賀郡漁業組合規約によれば、漁場の利用調整は、各町村浦漁場は「従来進退スル習慣ノ区域ニ拠ルモノ」(第三八条)とされ、入会漁場も「総テ習慣ニ拠ルモノ」(第三九条)とされ、慣行尊重の原則が強く打ち出されている。また、漁具・漁法についても、「従来使用ノ侭ヲ用ユ、又採藻モ仝様ノ事」(第三四条)とし、慣行の遵守を義務づけている。ただ、第三四条の但書で、「新規ノ漁具漁法ヲ使用セントスルモノハ、其漁具ノ雛形及使用法書ヲ添事務所ヘ差出シ可否ヲ乞フ可シ」とあるが、組合員に紛争をもたらすような新規の漁具・漁法は容易には認められなかったと考えられる。
 二十三年以降、県の水産行政は急速に進展していく。二十三年一月、福井県は「漁業採藻業取締規則」(県令第四号)と「漁業採藻税規則」(県令第五号)を制定したが、前者は、福井県としての最初の漁業取締規則である。この取締規則では、第一に、漁業採藻業者は、十九年の「漁業組合準則」により適宜組合を設け、組合内の取締を行うために正副各一人の取締人をおくことを定めた。これは、二十三年県令第六号で、同準則第一条の但書「漁者僅少ニシテ他ノ漁場ニ関係セサル地ハ組合ヲ設ケサルモ妨ケナシ」が削除されたことと関連しており、県内に漁業組合の未設置地域をなくすねらいをもっていた。そして、組合が二か村以上を単位として設置されている、あるいは設置が想定されることを前提にし、町村大字ごとに漁業総代一人をおくことを定めた。第二に、漁業採藻業者は、県または郡役所に願い出て免許鑑札をうけることとされた。また、「海湖ヲ区画シ漁場採藻場ヲ所用セントスル者」「不動ノ漁器ヲ構造セントスル者」「簗漁網戸漁ノ類」「入会漁業ヲ為サントスルトキ」は、特別の書式をもって郡役所または県へ出願し、許可をうけることを定めた。その書式雛形には「関係町村何々(大字)ヘ及協議候処、総テ故障無之候間、免許状御下付被成下度」の文言がある。これは、従来の慣行にもとづく漁業が、その漁場に関係のある町村・大字の同意を得なければ成立できなくなったことを意味した。第三に、水産繁殖に害を及ぼすおそれのある漁法、たとえば潜水器・打瀬網などを停止あるいは禁止することを定めた。
 「漁業採藻税規則」では、漁業税は営業人に賦課することを原則とし、毎年県会で「普通額」を決定のうえ、「収得高若ハ漁具漁船等」により町村会で定めた等級表にもとづき課税した。ただし、簗漁・網戸漁については、簗・網戸の設置場所に課税された。三十二年一月の同税規則の改正では、「土地ノ状況」により、場合によっては税額等級表は設けなくてもよいことになった。
 福井県は法令の整備を行うとともに、水産業の発展をはかる施策を積極的に実施していく。二十三年には県会の決議により改良漁船およびフカ釣漁具一式を新調し、山口県より「実業」教師を招聘し、漁船漁具の実地使用法の伝習を試みた。また、千葉県より棒受網(アジ・サバ・イワシ漁)を購入した。この年から、表120のように、県より水産業奨励費が毎年拠出されることになる(『県勧業年報』、『福井県農商工雑報』)。さらに、各県に漁業者を派遣し、各地の漁法の習得につとめた。二十五年四月の「改良漁船並ニ漁具貸与規則」(県令第三五号)には、沖合漁業の端緒を開く、あるいは新しい漁具の普及をはかり漁獲高を向上させようとするねらいがあった。

表120 福井県水産業関係勧業費(明治23〜34年)

表120 福井県水産業関係勧業費(明治23〜34年)
 二十六年、水産事業に関して知事からの諮問に答えまた意見を陳述するための水産諮問会が設置された。三〇人の諮問会員には、「県下ニ於テ水産事業上実業経験ニ富ミ又ハ学識名望アル」漁業者・魚商がおもに選ばれ、同会は、三十八年に福井県漁業協会が設立されるまで、県の水産行政の進展を側面から支える役割を果たした。
 福井県は二十八年に、水産諮問会の諮問を経て、茨城県より八坂網(イワシ漁等)、千葉県より改良揚繰網(イワシ漁)、和歌山県より縛網(イワシ・サバ漁等)、二十九年に、島根県よりシイラ網(シイラ漁)、岩手県より巾着網(イワシ・サバ漁)、三十三年には、茨城県より流網(マグロ・ブリ漁)などを導入し、これらを郡漁業組合または漁業者に貸与し、招聘した実業教師の指導のもとで試験操業を行っている。資力がなく新規漁法に取り組めない漁業者たちに代わって、高価で大型の網を買い入れ、これを試用させ実績を保証したうえで、改良漁法を普及させることを企図したのである。これらの網は、刺網系統の流網を除いては、いずれも旋網(巻網)系統のもので、魚群を包囲し漁獲する網である。このほか、塩サバ、スルメなどの水産製造法の改良、改良漁船による沖合漁業の奨励、玄達礁の漁場調査、足羽川孵化場でのサケ稚魚の育養と放流、三方五湖・北潟湖でのコイ、ウナギの放流などと取り組んだ。漁法・水産製造物の改良を促進するにあたっては、農商務省水産講習所などから水産巡回教師を雇い入れ、沿海各地で講習会を開催している(『水産諮問会日誌』、『福井県水産界史』)。
 さらに、二十八年、漁撈・製造・養殖の研讚を目的として、県立農学校水産科分校を遠敷郡雲浜村(小浜市)に設置した。三十二年、この水産科分校は独立し、全国で最初の水産学校となり、三十四年には福井県立小浜水産学校と改称された。同校の卒業生は、遠洋漁業・沖合漁業や、缶詰・蒲鉾などの製造業に従事した。



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