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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    五 水産業の発展
      明治初期の漁業制度
 明治四年(一八七一)の廃藩置県以後、漁場の占有利用関係をめぐる新しい動きが全国で活発化していく。幕藩体制のもとで維持、管理されてきた漁業慣行を打破し、新規に漁業を営む、あるいは漁場を拡大しようとする浦村や「にわか」漁民の出現は、既得権に支えられ永年漁業を営んできた漁村・漁民を動揺させ、各地で漁場紛争を生んだ。
 漁場紛争の多発という事態をふまえ、政府が漁業制度改革に着手したのは、明治八年のことである。同年二月、江戸期以来小物成、海成、海役、浮役などの名称で課せられてきた「雑税」を廃止した(太政官布告第二三号)。ついで同年十二月、海面は官有であることを宣言し、捕魚採藻等の漁業を営もうとする者は、管轄庁へ海面借用願を出すことを義務づけ、さらに、海面を借用した者から借用料を徴収しようとした(太政官布告第一九五号、同達第二一五号)。これらの施策には、旧来の漁場占有利用関係をいったん消滅させ、政府の管理のもとで複雑な慣行のある漁場を再編する意図が込められていた。しかし、政府は、翌九年七月の太政官達第七四号で「各地方ニ於テ適宜府県税ヲ賦シ、営業取締ハ可成従前ノ慣習ニ従ヒ処分可致」とし、旧来の慣行尊重の原則を打ち出したうえで、漁場の占有利用をめぐる調整・漁業取締を各府県に委ねた。
 漁業雑税の廃止と海面官有宣言は、旧来の慣行に支配されてきた浦村にいっそうの混乱と対立を引き起こした。従来から漁業を営んできた漁村からは、漁業慣行を明示した漁場借用願が県あてに提出され、他方海に面しながら慣行により漁業を営むことができなかった浦村からは、新規漁業営業願が出された。この事態に対処するために八年十月、敦賀県は第二四六号布達で浦村に、漁場の範囲、旧税額などを記した書面に漁場の権利を証明する証拠物(旧藩県の裁許書・隣浦村との取換書・漁場図)を添付して提出することを命じている。さらに、漁場借用願に対応するために、漁場慣行の把握につとめ、係官を現地に派遣して慣行の調査にあたった。そして、慣行として明白に認められた漁業に対しその営業を認可した。
写真102 漁稼ぎ取調べを命じる布令

写真102 漁稼ぎ取調べを命じる布令

 福井県域に最初に漁業取締規則が制定されたのは、嶺南四郡の属していた滋賀県では十年六月、嶺北七郡の属していた石川県では十一年一月であった。滋賀県「沿海漁業取締規則」の特色は、まず、第一条で「捕魚採藻ノ為メ海面ヲ所用セント欲スルモノハ、官庁ノ免許ヲ得ヘキモノトス」と規定されたように、従来の慣行にとらわれずに自由な営業を認めたことにある。また、第三条で「総テ地掛浦村主務タルハ勿論タルベシ」と示されたように、浦村地籍に面した地先海面の占有利用は当該浦村が優先するという、地先漁場地元主義をとったことである。石川県「捕魚採藻業取締規則」および甲六番布達では、捕魚採藻業を認可する条件として、「明治八年二月以前ヨリ連綿営業スルモノ又ハ其以后新ニ許可ヲ得テ営業ヲナシ居ルモノニ限ル」としている。また、同取締規則では、漁業の種類を三つに分け、一個の漁器を使用するのに三人以上を必要とする漁業を「大漁」、二人以下の場合を「普通漁」、さらに「遊楽ノ為メニスル」漁業を「遊漁」に分類している。なお、両県の「規則」とも漁業税は、漁業者一人につきいくらというかたちで課税している。
 漁場の占有利用関係をめぐる争論は、慣行の有無を軸にして展開した。争論は当事者双方と隣浦村の漁業総代・行政責任者との協議で解決されるか、郡または県の仲裁で和解することができなければ、裁判で争うかたちをとった。争論の内容と結末を具体的事例でみていこう。
 三方郡世久見浦と塩坂越浦の争論は、七年に従来世久見浦の漁場とされてきた両浦の地先にある「千島」手前漬木場に、塩坂越浦の漁民が立入り釣漁を行ったことが発端となった。世久見浦は八年十一月、敦賀県へ吟味願を提出した。この争論は、嶺南四郡が滋賀県編入後の九年十二月、滋賀県庁の役人の取調べを経て、隣村数か村副戸長立会のもと、一一七か所の漬木場の三割を塩坂越浦が借り受けるかたちで決着した(渡辺市左衛門家文書)。また、三方郡久々子湖をめぐる久々子村と早瀬浦の争論は、久々子村が久々子湖一円を自村の漁場とする漁場借用願を滋賀県に申請したことから生じた。従来、久々子湖は久々子村の占有漁場とされ同村より三二艘が、早瀬浦は一年に米六俵を納めることで七艘の「漁稼」が認められていた。この争論は、滋賀県の調整を経て、九年十二月、久々子村の漁船三二艘を二艘減らして三〇艘とし、早瀬浦の入稼漁船を七艘とすることで解決をみた。すなわち、久々子湖の湖南部「八分一厘一毛」は久々子村の、湖北部「一分八厘九毛」は早瀬浦の占有漁場となった。そして、早瀬浦から久々子村に納められていた、米六俵の入稼料は廃止となった(上野山九十九家文書)。
 この二件の争論は、地先漁場地元主義が漁場慣行を変更させるかたちで収束したが、このような事例はむしろ少数で、あくまで慣行が重視されることが多かった。そのなかで、訴訟にいたった事例を一つあげておこう。
図37 左右・城有付近

図37 左右・城有付近

 丹生郡左右浦と城有村・梨子平村の間に、浜地の所属とその地先水面の占有をめぐる争論が起こった。この争論は、城有・梨子平村が両村地籍の浜地の「所属引直」を求めたことから訴訟が提起され、大審院にまで持ち込まれた。十八年十月、大審院は、「古来ノ慣行成蹟」や文化年間に起きた左右浦と八ツ俣村の「海浜仕来」をめぐる争論の裁許請書のほか、十五年に福井始審裁判所で言渡された居倉浦と赤坂村との同様な争論の確定判決などを参考にし、当該浜地およびその地先水面が左右浦に所属するとする判断を下している(図37)。



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