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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
     四 林業行政の展開
      林野の官民有区分
 林野の地租改正は「官民有区分」のかたちをとってすすめられた。近代的所有観念になじみの薄い林野を官有地・公有地・民有地の三種に分け、それにもとづいて税の徴収の有無を規定することであった。明治九年(一八七六)一月に地租改正事務局「山林原野等官民所有区別派出官心得書」の公布によって区分方法が決定し、十四年にほぼ全国的に終了した。区分の方針・基準は、
 一、民有の確証のないものは官有地とし、区分不可能のものは官有と民有に折半する。
 一、これまで古簿冊の確証あるものに限ったが、限定づきで慣行についても認める。
 一、樹木植付、焼払いなどの人為的培養行為を民有地の重要要件とする。
などであった。そこには公有地を原則的には官有地に編入しようとする明治政府の意図があり、官有認定地のなかには本来民有とされるべき入会地などが多く含まれることとなり、のちに農民の下戻運動を引き起こす原因となった。
 福井県の林野の地租改正は若狭三郡(三方・遠敷・大飯郡)と越前敦賀郡は十一年十二月に終了し、農地の地租改正再調査が行われた越前七郡は十四年四月に着手され、十五年七月に終了している(資10 一―一五八、一九一)。この過程で林業政策の基礎となる林野の官民有区分が明確となり、表116に示したように十五年では民有林野面積一五万四九七六町歩、国有林野面積三三一か所三五五五町歩となっている。

表116 民有・国有林野面積

表116 民有・国有林野面積
 政府は十二年六月に全国官林を直接管理する方針を決めたが、十九年二月には大小林区署官制の制定により、事実上国有林経営が開始されるとともに、官有地における農民の入会利用もしだいに制限されるようになる。日清戦争によって木材の需要はふえ、鉄道の発達も手伝って私的林業経営も勃興しつつあった。しかし、政府の林業振興策は消極的で、三十年に制定された森林法も公有林・社寺有林の監督、保安林制度および森林警察権の確立にとどまった。



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