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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    三 農事改良
      農会と産業組合
 日本近代の農村社会における農業諸団体の果たす役割は、きわめて大きく、その代表が農会と産業組合である。農会は、農事改良と農業技術指導をおもな目的とし、産業組合は、組合員の産業・経済面の発展のため、所定の経済事業を共同経営することをおもな目的にするのは、周知のとおりである。そこでまず、農会の成立と展開について概観しておこう。
 一般に農会の前史は、明治十年代に各地に成立した農談会・集談会・勧業会などに始まり、これらが発展し全国組織として、明治十四年(一八八一)に大日本農会が成立する。当初は、農事改良を本旨とする農業団体として発足したが、その後二十七年に、農政的性格の強い全国農事会が設立され、その主張と活動によって、三十二年に農会法が成立する。
 福井県では、それに先立って、日清戦争を契機に、地主層主導の農会結成の気運がとみに高まり、二十八年春から、県下各町村に農会が続々と誕生し、秋には、郡レベルの農会の設置にともない、各郡農会代表による協議の結果、同年十二月十九日、県農会の創設をみるにいたった(『福井県農会史』)。初代会長には、松平康荘が就任したが、翌二十九年からは、荒川邦蔵知事の就任のように、知事または書記官が兼任し、副会長や評議員には、山田斂や青山荘などの地域の大地主が就任している。また、郡および町村の農会長には、郡長や町村長が兼務するなど、農会組織は官僚と地主層の結合の拠点ともなる。
 一方、従来農業技術の指導にあたっていた老農の主導性がしだいに後退し、専門教育をうけた農業技師が、各級農会の技術普及の指導的な役割を担うことになった。
 前述のように農事試験場を創設し、農事改良の総合的な試験・指導機関とするとともに、農事の改良進歩をはかるため、品評会・共進会・種子交換会などを実施するほか、耕種改善・品種改良・農業資材の改良普及などの活動に重点がおかれた。
 ところで、県農会が県知事や農商務・大蔵・内務などの各大臣、貴衆両院議長にあてた表114のおもな建議・請願・陳情からもうかがわれるとおり、農会は時代の進展とともに、しだいに農政的団体の性格を強めることがわかる。とりわけ、地主層の利害に直接・間接にかかわるのが目立っている。しかも農会法が、「農会補助金法」とまでいわれるとおり、日清戦争後の「戦後経営」の一環となる地租増徴の緩和策として、農村社会に補助金を交付するという事情からみて、地主層の農民支配を前提として、彼らを官側に引きよせるねらいで実施されたことは、あまりにも明白である。

表114 福井県農会による主要建議・請願・陳情・答申事項(明治30〜大正14年)

表114 福井県農会による主要建議・請願・陳情・答申事項(明治30〜大正14年)
 こうして、四十三年には、従来の任意団体の全国農事会が、帝国農会に改組されて法定団体になると、町村農会から帝国農会までの系統化が完成する。このような農会組織の制度的確立は、地主制を基盤とする農会が、しだいに官僚団体化し、政府の別働隊としての役割を担わされる過程でもあった。
 なお、町村農会の下部組織ともなる部落レベルの農家小組合が、稲作をはじめとする農業生産に果たす役割もしだいに大きくなるが、その顕著な普及をみるのは、大正中期以降のことである(農務局『農家小組合に関する調査』)。
 つぎに、産業組合の生成と、その歴史的性格について述べることにする。産業組合の前史としては、近世以降の頼母子・無尽講や報徳社などが指摘され、農村社会における協同組織の必要と、農村金融の制度化の重要性から、政府は、二十四年に信用組合法案を、三十年には産業組合法案をそれぞれ国会に提出したが、ともに成立にいたらず、三十三年再度提出の同法案で、ようやく成立をみたのである。
 こうして同年九月から施行され、信用・販売・購買・生産(のち利用)の四種の組合、ならびにその兼営組合が認められるが、福井県では、法施行後三年目の三十五年で、ようやく五組合を数えるだけで、その進ちょく状況は芳しくなかった(資17 第546表)。これは全国的な傾向で、農会が農会法制定後、急速に農村社会に定着していったのに比べて、産業組合の方は、その設置が遅々として進まず、ようやく農村社会に根を下ろすのは、独占資本主義が本格化する大正後期になってからである。
 ところで、明治後期から大正前半期の福井県下産業組合の設立状況については、全国水準に比べて組合開設の進展度が比較的高い。図36にみるとおり、とくに、大正期に入ると、全国平均が明治四十三年に比べ、一・三〜一・六倍程度の増加率に対して、福井県では二倍を越え、大正三年から、さらに五年になると、二・六〜二・八倍という高い伸び率を示している。また、市町村数に対する組合の割合にしても、福井県では三年で、一一六・八パーセント(全国平均、九〇・四パーセント)と一〇〇パーセントを超える。このことは、福井県下農村社会における産業組合への志向度が、大正期に入り急速に高まったことを物語る。
図36 産業組合増加状況(明治43年=100)

図36 産業組合増加状況(明治43年=100)
 つぎに、県下産業組合の信用事業について概観する。まず資金構成面で、出資払込額は、三十六年に比べ四十年には二万五四二九円(約九・八倍)となる。さらに、大正期に入ると、三年が二六万二一九〇円、五年には三五万八〇九二円と大幅増となる。しかし、組合員一人あたりの平均出資口数は、この期間二口程度で推移する。
 そこで、貯金の総額では、年々の増加率は比較的高いが、組合員一人あたり平均額では、四十二年までは一けた台で、四十四年から一〇円台となり、大正五年ではじめて四〇円台に急増する。設立後まもない産業組合では、出資金を分割払いによって集めるのが精いっぱいで、貯金の獲得は容易でなかったとみられる。
 そのため、貯金を原資にするのを建前とする貸付業務は、その本来のあり方から逸脱していた。つまり、貯貸率では、明治四十年からは大正三年を除いて、三〇〇パーセント台から一〇〇パーセント台へと漸減するが、それでも五年で一四八パーセントの比重をみせる。これが一〇〇パーセント以下となるのは、昭和期に入ってからである。こうした数値は全国的な傾向で、同じ五年の全国平均は、二八三パーセントで、福井県をはるかに上回る。したがって、貸付金の原資は、主として借入金に大きく依存せざるをえなかったといえる。
 購販売事業については、購買面では表115のとおり、明治末期から大正初年にかけて、総額および一組合あたり平均額がともに急増するが、さらに一層の増加をみせるのは、大正中期以降である。また販売面でも、ほぼ同じ傾向をみせる。しかし、大正五年の購販売事業の内容をみると、両事業とも、実際に活動している組合は比較的少ない。購買面では産業用品が調査全組合数(二一二組合)の六四パーセントの一三六組合、生計用品で五〇パーセントの一〇六組合を数えるだけである。また販売面では、さらに少なく、全体の二一パーセントの四五組合にすぎないのである。

表115 産業組合の購買・販売・利用高

表115 産業組合の購買・販売・利用高
 購買事業の取扱い価額では、産業用品がほとんどで、生計用品は二パーセント程度と、ごく僅少である。産業用品のなかでは、筆頭の生糸が九四パーセントを占めるが、これは機業関係の組合によるものである。ついで、肥料が五パーセントにすぎないが、取扱い組合数では、大半の八五パーセント(一一六組合)に及んでいる。その他の品目は、価額と取扱い組合数からみて、十分な購買事業とはいえない。
 一方、販売事業にしても、品目数の割には、価額や取扱い組合数のうえで、購買事業以上に低調なことがわかる。羽二重・菜種・薄絹が目立つ程度で、農業生産物の主力となる米にしても、取扱い組合数(一一)や価額からみて、産業組合に課せられた機能を満足に果たしているとはいえない。したがって、産業組合の各種事業が、ようやく軌道にのるのは、第一次世界大戦後の大正後期から、そして本格化するのは昭和期に入ってからである。



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