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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    三 農事改良
      米穀検査の強化
 廃藩置県後の地租改正にともない、とかく米穀の乾燥・調製・俵装などに粗漏な点が目立ち、さらに俵装が、従来の二重俵が一重俵となったので、脱漏米も少なくなかった。そのため、藩政期より好評を得ていた越前米も、その声価を失墜し、「越前ノ粃米」とまでいわれるようになる(『福井県輸出米検査事業及産米改良事業報告』)。
 そこで、明治二十年(一八八七)三月の「製米改良組合準則」(諭告第五号)により、米穀移出の要地である三国港や南条郡河野浦の米商組合が検査所を設け、県外移出の米穀は、すべて検査を受けなければならないことにした。ついで、北陸鉄道が敷設された三十年代には、沿線の郡市の米商人も組合をつくり、各駅で移出米の検査を義務づけた。ところが、組合の数がしだいに増加し、また、検査方法も統一を欠いたため、三十七年米商組合連合会を設けて、移出米の検査を実施した。
 しかし、こうした検査だけでは、米質・乾燥度などの改善は容易に実効をあげにくく、本格的な「産米改良」をはかるには、商人や地主に米穀を引き渡す前の段階、つまり生産農民が直接当事者となる検査が必要となる。この点、資本主義の急速な発展と、それにともなう米穀市場の発達に促され、市場での産米の評価を高めるための緊急課題ともなる。
 したがって県では、前述のように三十八年に「産米取締規則」を公布し、翌三十九年の産米から実施することとなる。また翌四十年六月、「市町村産米審査規程標準」を定め、県吏員の産米改良督励員を設け、県下市町村を巡回して、もっぱら産米の改良を督励する。さらに、県議会の要請をうけて、同年より移出米の検査を県の直轄事業とした。ついで、四十五年四月の「米穀検査規則」(県令第三五号)により、産米の検査も県営に移される。こうして、移出米および産米の検査がともに県営となり、県庁内に穀物検査所を設けた。支所は福井・三国・大野・武生・鯖江・西田中・敦賀・三方・小浜の九か所に設置し、さらに、六三の派出所を定めた。検査の等級は、産米検査を甲・乙・丙・不合格の四級、移出米検査は、一等から四等および不合格の五級に区分した。
 図34・35により産米と移出米の検査成績の大正前期における推移状況をみると、両検査がともに大正六、七年ころに、合格米でも丙等級・四等それに不合格米の比率がもっとも高く、両検査の手厳しさをみてとることができる。生産農民の利害に直接かかわる産米検査の場合、それに合格するための乾燥・調製・俵装(二重俵)に要する労力は、とりわけ、小作農にとってはかなりの負担ともなる。地主側は、小作米の徴収にあたり、とかく上級の合格米を基準にしがちなため、小作農が、それ以下の等級で小作米を納入するには、量の割増しや差額の負担をせまられる。したがって、地主と小作農との利害の対立から、福井県でも、すでに明治末期から大正期にかけて、産米検査に起因する小作争議が散発する。
図34 産米検査成績(大正1〜10年度)

図34 産米検査成績(大正1〜10年度)


図35 移出米検査成績(大正1〜9年度)

図35 移出米検査成績(大正1〜9年度)

 四十年の南条郡湯尾村湯尾(今庄町)での小作争議は、同年の産米検査に端を発している。一重俵を二重俵に改めたことが、小作農の負担をふやすものとして、小作米一俵につき二升の減額を要求した。結局のところ、郡長・警察署長の仲裁により、地主側が小作側の全要求をいれることで解決するありさまであった(資11 一―二八〇)。
 こうした米穀検査制度の導入にともなう争議の多くが、西日本各地、とりわけ近畿諸府県に発生する。しかし一方において、米穀検査は、小作農民にも産米改良の懸命な努力を強いるため、一部彼らの小商品生産者化に拍車をかけ、結果的には、後述する大正後期以降の農村社会での「中農標準化傾向」に促進的な働きを発揮させることになる。



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