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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    三 農事改良
      農業生産の展開
 明治二十年代のいわゆる「農政の空白期」から日清戦争後の「戦後経営期」を画期として、国の農政も急速に整備強化される。すなわち、明治三十年(一八九七)前後を中心に、河川法(二十九年)、森林法・砂防法(三十年)の治水三法、土地改良事業のための耕地整理法(三十二年)、農事技術改良をめざす府県農事試験場国庫補助法(同年)、さらに、農業団体にかかわる農会法(三十二年)、産業組合法(三十三年)、長期低利資金融通の農工銀行法・日本勧業銀行法(二十九年)などの法制化により、福井県でも、前述の地主制の形成とあいまって、官僚機構と地主制の結合による農政が強力に進められる。
 そこで、明治後期以降の県下農業生産の展開を、若干立ち入って検討してみたい。図32・33は、明治二十四年から大正九年までの県下主要農産物の生産量の推移を五年ごとの平均値で表わしたものである。
 まず、図32で、諸農産物のうちもっとも重要な米については、この時期の作付反別は微増程度であるが、収穫高は着実に増加し、大正三年には一〇〇万石を超え、明治二十四〜二十八年(六八万七一三二石)と比べ、大正五〜九年(一〇二万五一四三石)には約一・五倍の増収となる。したがって、反当収量も、明治二十四〜二十八年の一・四八石が、明治四十四〜大正四年の二・〇五石と大幅に増加するのは、三十年以降のさまざまな農業技術の向上・改良によるもので、その具体的内容は後述する。
 大麦・小麦は、ともに作付反別は漸減するが、収穫高は明治後期までは約一・一〜一・二倍に増収する。しかし、明治末から大正期に入ると漸減しはじめ、大正五〜九年では明治二十四〜二十八年の八割にまで減少する。その他の食用農産物(大豆・粟・黍・稗・蕎麦・玉蜀黍)のなかで、作付反別・収穫高がともに首位である大豆は、明治後期の四〇〇〇町・四万石が、大正期には三〇〇〇町・三万石に漸減する。
図32 米・大麦・小麦収穫高推移(明治24〜28年平均=100)

図32 米・大麦・小麦収穫高推移(明治24〜28年平均=100)

 また、図33では、まず菜種が、明治中期まで、一般の灯火油の原料として、かなりの作付反別があったが、明治後期以降の石油ランプや電灯の普及により、急減していった。つまり、明治二十四〜二十八年(三七〇〇町)と大正五〜九年(一六七五町)を比較すると、四五パーセントの減少になり、収穫高も四割余に低下する。
図33 菜種・綿・桑・葉たばこ・茶・繭収穫高推移(明治24〜28年平均=100)

図33 菜種・綿・桑・葉たばこ・茶・繭収穫高推移(明治24〜28年平均=100)

 綿は福井県の場合、おもに自家用綿の原料として生産されていたが、外国綿の輸入に押されて、作付反別・収穫高とも、明治後期から大正期にかけて激減する。収穫高においても大正五〜九年は、明治二十四〜二十八年の一二パーセントにすぎなくなる。
 また、大野郡を主産地とする煙草は、作付反別は明治末期にいたってほぼ半減するが、大正期には、六割余(一九〇町)にまで回復する。ところが、収穫高では、栽培技術の向上により、明治後期以降ほぼ一四万貫で推移し、明治二十四〜二十八年の八〇パーセント台を維持する。
 製茶では、作付反別が明治後期から大正期にかけて四〇〇町台で推移するが、収穫高は大正期に入ると、明治二十四〜二十八年(七万六六六六貫)と比べほぼ二倍弱にまで増加する。なお、郡市別の作付反別では、坂井郡が圧倒的に多く、全県下の五割近くを占める。
 つぎに桑畑は、作付反別が明治三十四〜三十八年以降は、明治二十四〜二十八年(二五〇四町)のほぼ一・三倍で推移する。収穫高も漸増傾向を示し、大正五〜九年まで五〇〇万貫台を保持する。一方、繭生産量は、明治末期から大正初期にかけて六〇〇〇〜九〇〇〇石以上の増産となり、大正五〜九年(四万四八八三石)には一・六七倍という大幅増となる。この点、繭生産価額のうえでも、生産量の増加に加え、第一次世界大戦による繭価の上昇から、大正三年(一三〇万一二五四円)に比べ、戦争終結後の八年(四九六万二九四七円)には、三・八一倍という大幅増額となる。なお、郡市別にみると、養蚕農家戸数・繭生産額がともに目立って大きいのは大野・今立・丹生三郡で、県下養蚕総戸数および繭生産総価額の過半を占める。
 八年の農産物総価額をみると、繭生産額(約四九六万円)は、米の約四六〇四万円についで二位を占める。三位以下は、食用農産物(約四三〇万円)・特用農産物(約三六二万円)・麦(約一二六万円)・果実(約六六万円)・緑肥用作物(約三二万円)の順となる(『県統計書』)。
 前述したように前田正名の『興業意見』は、福井県の望ましい農業生産の中核に、「米と養蚕」を据えたが、大正八年では養蚕の繭生産額が、米につぐ第二位を占めるとはいえ、米生産額の一割程度にすぎず、両生産額の間の格差が目立つ。このことは、福井県においては農産物構成面で、長野・群馬・埼玉・岐阜などの養蚕諸県とは異なり、稲作を主軸とする基本的性格が、地主制確立後の明治後期より大正期にかけて貫徹するのをみてとることができる。



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