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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    二 地主制の進展
      地主制の地域性
 明治二十一年(一八八八)の農家経営規模を、一・五町以上、〇・八町以上、〇・八町未満に三区分した場合、一・五町以上経営の農家と〇・八町未満の零細経営農家が全農家に占める比重は、全国諸府県の間でかなり相違する。農村経済の後進的な東北諸県では、一・五町以上が、二六(山形)〜三五(青森)パーセントを占めるが、先進的な近畿諸府県では、六(兵庫)〜八(大阪)パーセントと、きわめて低い比率である。一方、〇・八町未満では、東北諸県で、三七(青森)〜四四(山形)パーセントであるのに対して、近畿諸府県では、六八(京都)〜七三(兵庫)と比率が高い。ところで、北陸三県のなかでも福井県は、表103のとおり、一・五町以上の経営規模の比率(九パーセント)がもっとも低く、〇・八町未満の比率(六〇パーセント)では、もっとも高いことがわかる(農商務省『農事調査表』)。

表103 北陸3県農家経営規模別構成比(明治21年)

表103 北陸3県農家経営規模別構成比(明治21年)
 ところで、一般に土地所有者(地主)が、貸付地の小作料収入のみに依存して生活し得るためには、ほぼ一〇町歩以上の土地所有が必要とされ、一〇町歩以上地主の全土地所有者に対する比率の高低は、地主制進展の度合いを端的にあらわすとみてよい。二十一年で、近畿諸府県は、すべて一パーセント以下であるのに対し、秋田(三・八パーセント)をはじめ東北諸県では、一パーセント以上を占めるものが目立つ。北陸三県では、富山(一・六パーセント)、石川(〇・五パーセント)、福井(二七五戸、〇・四パーセント)の順となり、とりわけ福井県は、全国的にも著しく低率な府県のなかに数えられる。大規模な地主層のはなはだ少ない地域性をみてとることができる。
 ちなみに、松方デフレ期を経過した十九年の段階で、さらに大規模な地価一万円以上の大地主は、福井県は二七人を数えるにすぎず、全国で少ない方から、鹿児島県(四人)、宮崎県(二三人)についで三番目となる。石井寛治『日本経済史』の「地主制の地帯構造の調査分析」によると、各府県内の総地価を地価一万円以上の地主数で除した「密度」では、福井県が九二・七六万円で、鹿児島県(二五七・七五万円)を筆頭に、福島県、滋賀県、茨城県、群馬県についで六番目というきわめて高い数値を示す。また、地価一万円以上地主所有総地価を民有地総地価で除した「比重」では、福井県は一・五一パーセントで、全国最低の鹿児島県(〇・九五パーセント)から、福島県、滋賀県、茨城県についで五番目のはなはだ低い数値をみせることがわかる。こうした点からも、福井県の大地主の数や大土地集積の度合いは、全国的にみて、きわめて低位にあるといえる。
 そこで、一〇年後の三十年段階で、東北機業県の三県(宮城・山形・福島)、北陸三県の地価一万円以上の大地主数は、表104にみるとおりである。これらの諸県のなかで、福井県は石川県とともに、大地主の数や大土地集積の度合いが、依然として低位にある。しかし、十九年の地価一万円以上の地主二七人に比べると、五五人に倍増し、二十年代での一部大土地集積の進展が認められる。

表104 地価1万円以上所有地主数(明治30年)

表104 地価1万円以上所有地主数(明治30年)
 ところで、明治前期から後期にかけて、福井県下で群生する中小地主層の動向につき、標準的な土地所有規模の三方郡鳥浜村(三方町)の小堀善七家の場合、その土地集積状況は、十四年から三十年までに、田畑・宅地・山林などを含めた総反別が五町余(四八件、買受金総額四三四六円余)となる。そのうち田地だけをみても、十九年までの松方デフレ期において、全体(三町五反余)の三割弱にあたる九反余の取得が判明する(資10 二―七六)。
 また、地主制の確立にともなう「地代の資本転化」については、表105のとおり、日清戦争後の三十年代に活発化し、銀行株(地方・中央)や公債への有価証券投資がみられ、さらに、日露戦争を契機に海外投資も進められる。
 小堀家にみるような土地集積や投資活動は、当時の県下農村社会の地主層にほぼ共通するところであるが、大地主のなかには、早くも日清戦争後に海外投資に乗り出すものが現われる。敦賀町の大和田荘七の場合、京城(ソウル)と釜山を結ぶ京釜鉄道建設(三十四〜三十七年)にあたり、日本皇室(五〇〇〇株)、朝鮮皇室(二〇〇〇株)についで、岩崎久弥・三井高保・渋沢栄一とともに、一〇〇〇株の大株主(三十六年二月現在)として名を列ねている。

表105 小堀家の投資

表105 小堀家の投資
 さらに、日露戦争後の日本資本主義の帝国主義転化の過程に併行して、海外植民地農業開発の本格的な投資活動に力を入れる大地主が現われる。今立郡上池田村東俣(池田町)の飯田広助は、田畑三五町余、山林一八四町余を所有する大地主であるが、四十一年、朝鮮に東洋拓殖株式会社が設立されたのにともない、朝鮮忠清南道公州郡陽也面に進出して、「飯田農場」と銘打った大がかりな開拓事業を営んだのが注目をひく(飯田広助家文書)。
 ところで、明治二十年代後半からの私立普通銀行が群立するなかで、三十一年に従来の商業金融を中心とするのとは異なり、不動産抵当による長期低利資金を融資する福井県農工銀行が設立される。さらに翌三十二年、地域の産業界の期待にこたえるかたちで福井銀行が創設されるが、こうした金融機関には、とくに、県下各地の大地主が、表106にみるとおり、役員として積極的に参加する。

表106 地方銀行経営に参加したおもな大地主

表106 地方銀行経営に参加したおもな大地主



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