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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    一 勧業と勧農政策
      老農の農事奨励
 勧農策の推進にあたり、地域の農村社会では、老農が主導する農事奨励に大きな期待が寄せられた。その具体例を、足羽郡半田村(福井市)の老農飯田弥次兵衛の著作『農事奨励法』によりみてみよう。彼は十四年、「居村農談会」を起こし、「勧農民心勉励方法」(全五条)と「勧農通論」(全六六条)を定め、地域農民への勧農に徹した技術指導を大いに行った。まず同書の冒頭に、「勧農ノ要ハ多年実施ノ景況ニ依リ、其実施上ノ得失利害ヲ計リ、苟モ利アルモノハ之ヲ実施シ、反スルモノハ之レヲ除クヲ以テ急トスルニ如カス」と、勧農の第一のねらいを掲げる。 写真101 飯田弥次兵衛

写真101 飯田弥次兵衛

 「勧農民心勉励方法」では、村落内に農事通信委員一人と篤農二人計三人を選び、農家の勉励の度合いを審査し、各農家別の「点数簿」に得点数を記入する方法をとる。ついで、年間の総得点数を「勉励書」に記入して、「将来農事勉励鼓舞」の手立てにする。つぎに、「勧農通論」の内容を、甲・乙・丙・丁の四部に分け、甲(田ノ部)では、第一条(冬期潅水ノ注意)より第一八条(架拵ヘ法)までの各条文で、水稲耕作の具体的な留意点をあげる。二五条からなる乙(畑ノ部)では、麻・綿・藍・菜種など特有作物はじめ大根・茄子など蔬菜類の栽培法を、九条からなる丙(山林ノ部)では、杉・桧・楮などの培植・管理法を、一四条からなる丁(農育ノ部)では、農業経営全般にわたる注意事項を指摘する。飯田は、すでに明治初年に、彼の所有地内に「農事試作地」を設け、さまざまな「改良上ノ得失」を検討した結果、予期以上の実効を収めている。その成果をふまえて、前述のような営農上の具体的な留意点を掲げたものと考えたい。
 一方彼は、半田村の四七戸を対象とした農事奨励の手立てとして、「稲相撲」と銘打ったユニークな仕法を考案した。つまり、「恰も角力の番附」に似せての農事奨励をすすめた結果、十四年度につき、全村民の「農事勉励者相撲番附表」が作成される。「大関の位地を占めたるものはもっとも農業に勉励し、善良の稲穀を収穫したるものにして、関脇以下二段目・三段目各々等差ありとす」との評価基準を定め、翌十五年度以降も、毎年「番附表」を掲示して、全農家に農事の勉励心を鼓舞したのである。こうして彼が、村内各農家への巡回指導を実施した結果、表101のように村全体として、十四年の一反歩平均収穫米が、八年と比べ一・一三倍の「二斗三升三合三勺の増加を見る」ことになり、農事改良の実効が漸次あがりつつあった(『若越自由新聞』明26・11・15)。

表101 半田村の稲作平均成績比較

表101 半田村の稲作平均成績比較
 以上のような飯田の農事奨励の具体的内容からみて、明治前期の老農の性格が、上層農のなかでも、単に小作米収得に依存する地主ではなく、一部田畑を耕作する手作地主であり、しかも、自ら「農事試作地」を営むなど、創意工夫と豊かな経験にもとづく識見と技術をもった人物であることがわかる。このほか、当時のこうした老農として、今立郡新横江村(鯖江市)の三田村八高と敦賀郡松原村の西野四郎太夫をあげることができる。三田村は、十七年に南条・今立両郡の農事通信委員として活躍し、種子交換会の開設、農桑の技術指導に尽力した。また西野は、十年に貯蓄法を案出して村民の疲弊を回復し、十九年に水利土功会を起こして、水稲の増収をはかり、病虫害駆除・種子交換などの農事指導に成果をあげている(『県史』三 県治時代)。



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