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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      その他の団体組織
 またこの時期には、これまでみてきた以外にも、さまざまな目的や趣旨にもとづく団体組織の結成がさかんであった。ここに、そのいくつかを紹介しよう。
 たとえば、その一つに地主会がある。同会は、町村内の地主が協調して小作の奨励を行うことを目的とし、産米・納米の成績に応じた小作奨励金の授与や小作米の品評会などを主たる事業とした。さきにみた吉田郡五領ケ島村でも、同様な趣旨の「小作奨励会」が設立されている。さらに、大野郡荒土村の場合には、村内の年貢相場の協定や小作争議の調停もまた地主会の事業に掲げている(福井県立博物館所蔵文書)。こうした町村における地主の団体組織は、明治三十九年(一九〇六)に「産米取締規則」の施行にともない、県から設立が奨励されていた(訓令第三五号)。米穀検査の導入をめぐる地主・小作間の紛争を予防するためにも、町村内の地主の連携が何より必要と考えられていたのである。
 また、この時期には県費の補助をうけるかたちで市町村の罹災救助の体制が整えられるが、その一方において都市部を中心に慈善あるいは感化救済のための活動がさかんになった。四十一年には、それまでの真宗本願寺派福井別院と真宗南越婦人会の事業や活動を発展させて、孤児・貧児・棄児の救済、教育のための私立育児院が福井市に設立された。またその直後には、免囚保護を事業とする福井市の南越福田会や窮民の収容・救助をはかる敦賀町の仏教慈善会などが設立されたが、これらはいずれも寺院または仏教団体の活動によるものであった(『福井県社会事業一班』大正一〇年)。こうした仏教側の積極的な社会貢献の動きは、すでに日清戦争のころからみえるが、日露戦後の地方改良運動の推進とともにその勢いを増していったのである。ちなみに、こうした感化救済の事業や活動は、大正期の半ばにいたって、新たに社会事業の一環に組み込まれていく(第四章第四節二)。
写真99 育児院の授業

写真99 育児院の授業

 一方、真宗信仰のさかんであった嶺北地域の農村部では、仏教青年会や仏教婦人会を設立する町村がふえていった。たとえば、四十年に今立郡服間村で創設された仏教婦人会では、「仏陀ノ聖訓ト教育勅語トヲ経緯」の倫理道徳とみなし、宗派的な偏見をさけて「四海兄弟ノ主義ヲ奉戴」することを規約に唱っている。そして、会員の檀那寺の住職を順に講師として招き、毎月一回、修養講話会を開催していた(『服間村是』)。また同郡新横江村でも、三十六年に愛国仏教青年会を創設し、真宗山元派の管長や島地黙雷などの学僧・有識者を招いた講演会や日露戦争による戦病死者の追悼会などを重ねていた(『新横江村是』)。このように、仏教勢力も感化救済事業や地方改良運動の趣旨に沿った国民教化を担う一翼として、自らの社会的な基盤を固めていったのである。
 さらに、内務省の外郭団体であり、事実上地方改良運動の推進母体であった「報徳会」(のち、中央報徳会)やその機関誌『斯民』にちなんで、「報徳会」「斯民会」を名乗る団体が各地で結成された。四十一年に設立された坂井郡斯民会もその代表的な例であり、郡役所や町村、学校の職員、そのほか『斯民』購読者をもって会員とし、郡内町村における青年団体の教化を主たる事業とした(資11 一―二七三、二七四)。また町村においても、服間村のように「地方改良ノ実績ヲ挙クル」ことを目的に掲げ、いままさに流行の斯民会を結成するところがあった(『服間村是』)。



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