またこの時期には、これまでみてきた以外にも、さまざまな目的や趣旨にもとづく団体組織の結成がさかんであった。ここに、そのいくつかを紹介しよう。
たとえば、その一つに地主会がある。同会は、町村内の地主が協調して小作の奨励を行うことを目的とし、産米・納米の成績に応じた小作奨励金の授与や小作米の品評会などを主たる事業とした。さきにみた吉田郡五領ケ島村でも、同様な趣旨の「小作奨励会」が設立されている。さらに、大野郡荒土村の場合には、村内の年貢相場の協定や小作争議の調停もまた地主会の事業に掲げている(福井県立博物館所蔵文書)。こうした町村における地主の団体組織は、明治三十九年(一九〇六)に「産米取締規則」の施行にともない、県から設立が奨励されていた(訓令第三五号)。米穀検査の導入をめぐる地主・小作間の紛争を予防するためにも、町村内の地主の連携が何より必要と考えられていたのである。
また、この時期には県費の補助をうけるかたちで市町村の罹災救助の体制が整えられるが、その一方において都市部を中心に慈善あるいは感化救済のための活動がさかんになった。四十一年には、それまでの真宗本願寺派福井別院と真宗南越婦人会の事業や活動を発展させて、孤児・貧児・棄児の救済、教育のための私立育児院が福井市に設立された。またその直後には、免囚保護を事業とする福井市の南越福田会や窮民の収容・救助をはかる敦賀町の仏教慈善会などが設立されたが、これらはいずれも寺院または仏教団体の活動によるものであった(『福井県社会事業一班』大正一〇年)。こうした仏教側の積極的な社会貢献の動きは、すでに日清戦争のころからみえるが、日露戦後の地方改良運動の推進とともにその勢いを増していったのである。ちなみに、こうした感化救済の事業や活動は、大正期の半ばにいたって、新たに社会事業の一環に組み込まれていく(第四章第四節二)。 |