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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      青年会の活動
 地方改良運動の担い手という点では、次代を背負う青年層に対する期待もたいへん大きかった。それは、服間村国光尋常小学校の校訓にも示されたとおり、「我家を愛し、父母の命に従ひ」「学校を愛し、教師の教を守り」「我村を愛し、長上を敬ひ」「国家を愛し、勅語・詔書の御趣意を奉戴」する、「良き村民」「忠良の区民」を育成することであり、家から区、町村、そして国家に通じる公共道徳心を身につけさせることであった(『服間村是』)。小学校を卒業した若者たちでつくる「若連中」と呼ばれた村(旧村)の伝統的な若者集団が、近代的な衣をまとった青年会へと脱皮をはかるのも、この時期に多くみられたことである。
写真97 北中山村磯部青年会の共同夜業

写真97 北中山村磯部青年会の共同夜業

 新しくなった青年会の活動といえば、地方改良運動の縮図のようにさまざまな事業に取り組んでいるが、その中心は夜間における補習教育と共同作業であった。足羽郡上文殊村の東大味青年会に例をとれば、農繁期や養蚕収繭期を除いて毎夜午後八〜一〇時の二時間、個人宅に小学校卒業生や不就学の青年を集めて、「近古史談」「国民読本」「高等小学読本」や地方の新聞・雑誌などをテキストに夜学を開いている。冬季は毎月五回藁仕事を行い、農閑期には土砂運搬などを請け負い、それらの収益を会費や基本財産にあてていたという。また大野郡西谷村青年会の例では、十月から翌年の三月までの期間、小学校や仮分教場で夜学を開き、修身・国語・算術の三科目を学んでいる。加えて、冬期には通学児童のために道路の除雪を行い、これ以外にも樹木の枝打ち、道路の草取りなどの奉仕作業や軍人慰労活動に取り組んでいたという(『福井県自治民政資料』)。当時、新聞や雑誌などでも各地の青年会活動を伝える記事がさかんに掲載され、新聞・雑誌縦覧所や図書館、倶楽部の創設、あるいは武術訓練や水難救助演習、道路の修繕や公共施設のための土地造成、害虫駆除や農事視察など、その事例をあげれば枚挙にいとまがない。
写真98 南中山村野岡青年会の新聞雑誌縦覧所

写真98 南中山村野岡青年会の新聞雑誌縦覧所

 こうした青年会活動の普及にともない、当然のことながら青年たちの行動はこれまで以上に監視が強められることになった。賭博や野荒し、飲酒・喫煙などの取締りはまだしも、路上での歌唱や寸暇に駄菓子屋へ集まることさえ禁じられたのである。敦賀郡中郷村山泉区でも、青年補習学校の創設により、新聞・雑誌を購読したり、カルタ・ピンポン・ベースボールなどが流行する一方で、これまでのように飲食店や駄菓子屋に通う者がいなくなったことを自賛している(『中郷村是』)。あるいは大野郡五箇村のように、青年会の事業として楮の栽培と紙漉の技術を伝習し、ひいては冬期出稼ぎの廃止を企図するところもあった(『福井県自治民政資料』)。町村是のなかで、農村における適当な娯楽・修養施設の設置が唱われたことも、第一には青年の風紀矯正が問題とされていたのであり、明治三十八年(一九〇五)以降、各地で実業補習学校を併設する小学校がふえはじめるのも、夜間に青年を収容する施設が必要とされたからである(資17 第584表)。
 ところで、各地で青年の教化が声高に叫ばれ、青年会の結成や活動がさかんになるなか、「田舎青年の告白」と題する一つの投書が、福井県教育会の機関誌『福井県教育』(明治四二年六月)に掲載された(資11 一―二六九)。著者は、「三方郡・農村青年」と名乗るのみで定かでないが、その内容からみて青年会運動に対してかなりの憤懣をいだく有識者であったと思われる。その主張には、青年会が「いやどこの支部には何々何々の事業を起こしたの、彼所の支部には此んな事をやつた」ということばかりを気にかけて、事業がまったくの模倣や形式に流れていること、そのうえ、そうした事業の実績が「郡や村の郡長様や校長様の御栄転遊ばす材料に供せられて」いることが訴えられている。しかし、こうした運動における表面的な形式・実績主義の傾向は、何も青年会の事業や活動に限られたことではなかった。もとより官僚が提示した模範を実践するかたちですすめられた地方改良運動の全般にみられたことである。「田舎青年の告白」は、青年会運動の実態を明らかにするなかで、地方改良運動がもっていた本質的な問題、つまり、あくまで官製運動であることの限界性を指摘していたのである。



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