明治三十七年(一九〇四)、日露戦争がはじまるとただちに、各地で軍人家族の救護を目的とする団体組織がつくられていった。そのうち、もっとも多いのが軍人家族保護団と呼ばれた組織であった。
大野郡富田村や吉田郡円山西村などの例では、村内の区(大字)を単位に保護団を設置し、郡長や村長の監督のもとに生活困難な軍人家族に対する援護活動を行っている。その内容は、団員による労力や金銭・物品の援助を行うもので、対象となる軍人家族の戸数割の等級に応じて救護の軽重を定めた。当然ながら活動のすべては無償奉仕であり、救護金も団員が各々の戸数割等級に準じて分担するものであった(蕨生区有文書、資11 一―三七九)。円山西村の幾久区では、同年中に四人の出征軍人に対し、合計金九円と農夫三五人の労働力を提供している。丹生郡豊村の下司区でも軍人家族の援助のための農業労力奉仕を定めているが、ここでは「鬮引」によって、手伝いの輪番順次を決めている(下司区有文書)。この「鬮引」というのは、明治初年まで「畔直し」と呼んだ耕地の割替えの際に用いられてきたものであり、村民が村高を平等に負担・維持するための共同体的な慣行であった。
また南条郡神山村の例では、軍人家族救護会の事業として寄付金をつのり、家族救護・出征見舞・変災見舞・予備の四種の基金を創設している。家族救護金の場合は、戸数割等級の一五等以上、すなわち村内の中流以上の家には支給されず、一家の主労働者の出征に限り一二等にまで許されることになっていた。その額は、家族救護金としては最高の一か月五〇銭であった(武田金十郎家文書)。
このように日露開戦により突発的に開始された軍事援護活動は、町村民、とりわけ区民の相互扶助に支えられたのであり、兵士を送り出した区が自ら担わなければならなかったのである。 |