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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      軍事援護と軍人団体
 明治三十七年(一九〇四)、日露戦争がはじまるとただちに、各地で軍人家族の救護を目的とする団体組織がつくられていった。そのうち、もっとも多いのが軍人家族保護団と呼ばれた組織であった。
 大野郡富田村や吉田郡円山西村などの例では、村内の区(大字)を単位に保護団を設置し、郡長や村長の監督のもとに生活困難な軍人家族に対する援護活動を行っている。その内容は、団員による労力や金銭・物品の援助を行うもので、対象となる軍人家族の戸数割の等級に応じて救護の軽重を定めた。当然ながら活動のすべては無償奉仕であり、救護金も団員が各々の戸数割等級に準じて分担するものであった(蕨生区有文書、資11 一―三七九)。円山西村の幾久区では、同年中に四人の出征軍人に対し、合計金九円と農夫三五人の労働力を提供している。丹生郡豊村の下司区でも軍人家族の援助のための農業労力奉仕を定めているが、ここでは「鬮引」によって、手伝いの輪番順次を決めている(下司区有文書)。この「鬮引」というのは、明治初年まで「畔直し」と呼んだ耕地の割替えの際に用いられてきたものであり、村民が村高を平等に負担・維持するための共同体的な慣行であった。
 また南条郡神山村の例では、軍人家族救護会の事業として寄付金をつのり、家族救護・出征見舞・変災見舞・予備の四種の基金を創設している。家族救護金の場合は、戸数割等級の一五等以上、すなわち村内の中流以上の家には支給されず、一家の主労働者の出征に限り一二等にまで許されることになっていた。その額は、家族救護金としては最高の一か月五〇銭であった(武田金十郎家文書)。
 このように日露開戦により突発的に開始された軍事援護活動は、町村民、とりわけ区民の相互扶助に支えられたのであり、兵士を送り出した区が自ら担わなければならなかったのである。
写真96 軍人家族保護団規約

写真96 軍人家族保護団規約

 また、日露戦後には在郷軍人の活動が活発化した。すでに日清戦争のころから、「郡民ノ尚武心ヲ養成シ、軍人ヲ優待シ、及軍人ノ志操ヲ振作スル」ことを目的に、県や郡を単位に尚武会が結成されていたが(資11 一―三七六)、町村における在郷軍人の団体組織が勢力を持つようになった。
 今立郡服間村では、四十二年七月末現在で団員二一八人を抱える在郷軍人団が設立されていた。団員の遵守事項には、「秩序を重ンジ、軍人ハ勿論、上長者ニ対シテハ服従心ヲ失ハサルコト」「業務ニ勉励シ、世人ノ模範タルヘキコト」「公共事業ニ向ツテハ、率先尽力スルコト」「軍隊ト地方トノ間ヲ斡旋シ、殊ニ在営者家族ニ対シテハ誤解ナカラシムルコト」などが掲げられ、軍隊のきびしい規律が日常生活のなかに持ち込まれた。役場や学校での会合の際にも、団長が軍人としての素行を監視し、注意を加えることがあった。団としての行事は、撃剣や銃操術、器械体操などの練習、徴兵適齢者・入営者に対する軍事教育のほか、入営者の送迎や忠魂碑への参拝、さらに戦病死者の墓所の清掃や戦病死者の遺族や廃兵に対する扶助にまで及び、町村役場を代行して軍事にかかわるあらゆる問題を担っていたのである(『服間村是』)。
 四十三年には、各地のこうした動きをとらえて、陸軍による帝国在郷軍人会が結成され、既成の在郷軍人の団体組織が町村の分会として位置づけられることになる。世人の模範であり、上級者への服従心を誓わされた在郷軍人が、地方改良運動において重要な担い手とみなされたことは改めて言うまでもない。



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