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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      神社整理の提唱
 地方改良運動では、一町村を一家にみなし、家族とされた町村民の和合こそ望ましい町村「自治」の姿であるといわれた。部落有財産の整理にあたり、部落観念の除去による一村の結合が望まれたことも、この「一町村一家」主義にもとづいている。その意味では、人びとの信仰を集める神社こそ、町村民心の統一のために整理統合が必要とされたのである。またこれと同時に、国家の祭祀であり、町村が管理すべき財産としての神社の整備をはかることも目的の一つであった(笠松雅弘「『神社整理』政策と福井県における展開」『福井県史研究』一)。
 明治四十年(一九〇七)、県は神社の整理統合をすすめるために「神社廃合標準」を示し、無格社および社殿・境内地・氏子数の一定基準に満たない村社の合併を促した(訓令第二五号)。この趣旨をうけた今立郡では、「本件ハ、神社ノ革命ト称スヘキ一大事件ナレバ、実施上諸種ノ支障ニ遭遇スルナルベシ、然レトモ本郡神社ノ実況ニ鑑ミ、其実行ハ一日モ忽ニセスベカラザル」と、郡長が町村長に対して整理の実行を督促している(資11 一―二六一)。
 その後、公式に登録された神社の数をみると、福井県では大正五年(一九一六)までに村社で約二九〇・境外無格社で約七九〇社が減少している(資17 第599表)。これをさらに郡ごとにみると、三方郡と今立郡の減少率が高く、各町村で実施された整理事業の結果は、以下の三つのパターンに分類することができる。
 その一つは、さきの「一町村一家」の理念をもっとも体現した一町村一社のかたちである。これは大野郡上味見村や吉田郡吉野村の事例に代表される。上味見村の場合は、四十四年に内務省により町村「自治」の模範村として選奨・表彰され、その記念事業として神社の統一をはかった。翌四十五年に、五区に点在する五つの村社を役場が置かれる村の中央部、中手区の八幡神社に合併している(資11 一―二六二)。一方、吉野村の場合は、四十三年に神社統一事業のために吉野神社を新築し、村内すべての村社・無格社をこれに合併した(『福井県自治民政資料』明治四五年)。両者は、いずれも模範的な実践例として当局の好評を得ているが、模範村であった上味見村は、「敬神をもって自治の中心とせる一村」と、いっそう称賛をうけることになった(前掲『地方改良実例』)。
 だが、いずれの場合も、神社の合併とはいえ社殿の移築や倒壊をともなわず、各社の神像あるいは鏡、幣を一堂に持ち寄るものであった。公認される神社の数は一つとなったが、合併を済ませた各区には旧来の社殿・境内がそのまま維持・保存されていた。旧上味見村西市布の政田左治右衛門氏からの聞き取り(昭和58年4月)によれば、統一された新しい村社の祭礼とは別に、各区の旧慣にもとづく祭りも公然と続けられていたという。
 その二つめは、一区(大字)一社のかたちであり、これは三方郡や遠敷郡の町村によくみられる。両郡ではそもそも区ごとに多くの無格社があったことから、一町村一社にいたる前段階として、まずは区内の整理統合に着手したものと思われる。三方郡の減少率の高さは、その徹底をはかったことによるもので、区の範囲にとどまる神社の合併はまだ受け入れやすかったであろう。
 このように神社整理には、一町村一社、一区一社という二つの段階的な方針があったようだ。そしてその三つめが、前段階の一区一社から目標の一町村一社へと移行する過渡期の様相を示すかたちである。さしあたり、中間・折衷形としておこう。これは今立郡によくみられる。たとえば、表96にみるような岡本村の場合がその典型であり、杉尾・八石を除く轟井から南坂下にいたる通称「月尾谷」のブロックで一社、不老・大滝・岩本・新在家・定友の「五箇村」を構成するそれぞれの区で一社ずつの神社が配置されている。ここで、役場が置かれる定友区の神明神社に注目してみると、社名を村名にちなんだ岡本神社と改称し、八石区の八幡神社を合併することで村社の社格を譲り受けている(八石区有文書)。おそらく同社を新たな村社として、ここに村内すべての神社を合併する準備が整えられたのであろう。ところが、互いに合併を譲らず、一村一社の実現にはいたらなかったものと思われる。

表96 岡本村の神社整理の結末

表96 岡本村の神社整理の結末



図29 岡本村の区の配置

図29 岡本村の区の配置

 こうした中間・折衷形を示す事例には、その町村のなりたち、とくに合併以前からの各区(旧町村)の力関係が浮き彫りにされていることが多い。部落有財産の統合もさりながら、町村統一をめざす神社整理の強行策こそ、かえって部落間の垣根を高くする結果を招いたのである。大正四年(一九一五)の県会で、「神社併合は農村の繁栄、農村の娯楽機関の設備を奨励する主旨に反する……神社には古き歴史あり、此歴史が神徳に影響すること多ければ、此を合併せば風教上には害あるべし」などとの理由から、事実上、当局が神社整理の打切りを表明したことも、こうした現実の問題に直面していたことを物語っているのであろう(資11 一―二六三)。
 なお、町村民心の統一という点では、神社と同様に学校も町村の中心(役場所在地)に置くことが望まれていた。これも同じく町村有財産の整理という目的をもっていたが、小学校もまた「一村一校」をめざす統廃合がすすめられ、やはり各地で激しい紛擾の種となっている(第二章第一節四)。



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