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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      勤倹貯蓄のすすめ
 また納税組合とならんで、さきの「戊申詔書」の趣旨にそった勤倹申合規約や貯蓄組合の設置が各地でみられた。県は明治三十七年(一九〇四)に「勤倹貯蓄組合準則」を定めていたが、四十二年からは郡長・郡書記を町村や区(大字)に巡回させ、貯蓄組合の設置奨励につとめさせていた(前掲『地方事務調査書』)。
 ここでまず、大飯郡青郷村で結ばれた節倹規約の内容をみてみよう。そこでは、何より「各自ノ身分」に応じて奢侈を慎むことが唱われ、奢侈を改めない者には翌年の税負担をふやすという罰則が設けられていた。奢侈の中身は、冠婚葬祭や祭礼などに用いる餅・饅頭・菓子、各種の祝宴・供応の際の引出物などをさし、農・商・工に従事する者は、「身分」に不相応な衣服を着用せず、礼式にも綿服を着ることが定められていた。また、「上流ノ資産家」の場合には、とくに費やした金銭の同額を小学校基本財産に寄付するという別項目が用意されていた(「青郷村条例並諸規則」)。ちなみに同村では、学校基本財産の造成を名目に、家内の行事ごとに膳料一人分の代価を学校に寄付するという新たな規約も結ばれたことは、さきにみたとおりである。この場合にも、県税戸数割の等級にもとづく寄付の最低標準額が定められていた。
 つぎに、遠敷郡鳥羽村における勤倹貯蓄運動のようすをみてみよう。この村でも、冠婚葬祭に酒・肴を出すことや家屋新築の普請見舞など、華美とみなされた旧習の廃止が規約されていた。そして特別な事情があってこれを守れない場合には、役場の承認を請うことが必要であった。さらに、これとは別に学校建築のための「五年間大節倹」が叫ばれ、五〇〇〇円を目標に一か年一戸平均二円を貯蓄することが定められていた。節倹としていわれた内容は、旧慣であった祭日の来客と休業日の廃止、青年が飲食店での浪費を改めることなどであり、その余剰をもって各戸は年二回、「身分」に応じて定められた額以上の貯蓄金を区長に納めなければならなかった。またそのうえ、同村には主婦会による勤倹貯蓄組合も設立されていた。ここでも、戸数割の等級にもとづいて定められた額以上の積立金を六か月ごとに納付することになっていた。積立金を集めるために配られた貯金袋には、「壱銭でも、よなび(夜なべ)してはたらきだして」「弐銭でも、しまつしてまい月このふくろにいれて」「六ケ月日には、さだめの金より、よけいになるよう」と、婦人の貯金を励ます言葉が記されていた。しかし、各人が貯蓄した金銭は、転住か死亡・非常災害などの場合を除いて、決して払い戻しが許されなかったのである(『鳥羽村治蹟』大正五年)。
 こうした勤倹貯蓄運動では、各戸・各人の分限を定めて、それにもとづく目標を達成する方法がよく用いられた。これは、地方改良運動の思想的な根拠であった報徳主義の「分度推譲」、すなわち許される支出の範囲を定めて残りを公共に資する、という教訓にもとづいていた。この分度・分限が各戸の「身分」に応じて定められたのであり、身分の基準にはもっぱら戸数割の等級(分定)が適用されたのである。この場合、さきに大野郡富田村の例でみたように、戸数割が人頭税的な性格を強めていけば、中・下層民にこそいっそう重い負担がのしかかっていく。しかし、このような問題は何ら触れられることなく、村民生活には分度をしのぐきびしい制限が加えられ、貯蓄の名目のもとに租税以外のさまざまな義務的負担が強いられていったのである。



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