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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      納税組合の組織
 戸別割に大きく依存した町村税は、国税や県税に比べて納税成績が悪かった。それはまず、納税期日や滞納処分の違いに原因があるとみなされ、国・県・町村税を同時に徴収し、督促令状の発布や督促手数料の徴収など、町村税滞納者に対する処分が強化されることになった。さらにこれとならんで、納税に対する町村民の意識の教化をはかり、区長を責任者とする納税組合の設置がすすめられることになったのである。
 この時期には、町村条例の整備や町村制の改定にともなって、町村内に区を制度的に置き直す動きがみられ、町村行政を末端で補佐する吏員としての区長や区長代理者の立場がより明確に規定された。明治四十三年(一九一〇)に定められた五領ケ島村の「区長処務規程」でも、区長は「村治ノ円満ヲ図リ、村発展ニ資スヘキ事項ニ関シ村長ヲ補助シ、併テ区内ノ民心統一ニ努ムル事」が責務であり、納税に対しても「諸税令書ヲ配付シ、納期限マテニ納付セシムル事」「滞納処分ヲ行フトキハ之ニ立会フ事」が務めとされている(「五領ケ島村例規全集」)。
 ここで、敦賀郡中郷村の納税対策をみてみよう。同村では、学校父兄会や区長会、区民集会などに村吏が出向いて納税観念の普及につとめ、期間をすぎたものにはただちに督促令状を交付し、督促手数料も一回二銭から一〇銭に引き上げた。そして四十年には租税完納組合を設立し、区長を幹事にあてて自区の納税成績に対する責任を負わせることにした。その結果、つねに成績不良であった村税も、四十二年には完納を果たしたという(『中郷村是』)。
 同じく四十四年に納税組合を設立した今立郡新横江村では、組合長(村長)が毎年各区の納税成績を掲示場に公表し、優良区や優良者を表彰することで、互いに納税を競わせるという方法を取り入れている(『新横江村是』明治四二年)。この納税成績については、すでに県が三十九年に「納税成績表彰規程」を定め、優良市町村の表彰のために、各市町村に対して成績表の提出を義務づけていたものである(訓令第一号)。これを町村内でも公表して、区や個人の表彰を行おうとしたのである。
写真95 小浜町の納税組合事務所

写真95 小浜町の納税組合事務所

 また、遠敷郡小浜町のような市街地でも、全町二四区に納税組合がおかれることになった。そこでは、予定される国・県・町税の年額を日掛け、月掛けで積立し、その貯金をもって組合長(区長)が納税を代行するという方法が採用された。これは四十二年の皇太子北陸行啓の記念事業として発足したものであるが、同年の小浜町における納期内徴収額は前年に比していっきょに五倍もふえている(前掲『地方改良実例』)。
 このように納税組合の設置は、町村内における区長を媒介にした徴税機構の強化をはかることがねらいであり、区民の競争心、あるいは共同体の規制力をも巧みに利用して、納税成績の向上に成果を生んだのである。



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