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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      「部落有財産」「協議費」の整理
 基本財産造成の要請が強まるなかで、いっきょに財政基盤の強化をはかる良策として、区(大字)が所有していた山林・原野などの「部落有財産」を無償で町村に提供することが奨励された。そのさい、部落有財産こそが町村内を分断する区の独立性、すなわち「部落割拠主義」を支える物的・経済的な基盤であると強調され、これを町村基本財産に一括統合することが叫ばれたのである。明治四十三年(一九一〇)六月、遠敷郡瓜生村の区長会の席上でも、「抑々部落有財産ハ、旧村ノ遺物ニシテ……之ヲ存スルハ村民ノ部落観念ヲ強メ、団体ノ結合ヲ薄弱ナラシムル所以ニシテ……速カニ之ヲ統一シテ村ニ移シ、団体ノ結合ヲ鞏固ニシ、併テ基本財産ノ増殖ヲ計ラントス」と、部落観念の除去による一村の結合と村有基本財産の増殖という、部落有財産の統一がもたらす一石二鳥の効果が力説された(資11 一―四三)。
 福井県における部落有財産の統合は、四十三年に着手され、大正前期までに全県で三万二八七四町あった面積の半数あまりが整理されたようである(資11 一―四七、四八)。大飯郡青郷村では、四十三年に総計四一六町あまりあった部落有財産の整理にとりかかっているが、その一半を村に無償提供して、残りの一半は各区民に譲与し、一段歩の代価を三円と見積り、その合計金額六三五〇円を五か年賦で村に納入するという方法をとっている(前掲『地方改良実例』)。一方、四十四年に統合をはかった大野郡富田村のように、村に提供する財産額の均衡を保つため、部落有財産をもたない区や、それが一定額に満たない区に対して、不足分を賦課金や寄付金のかたちで徴収したところもあった(土打区有文書)。整理統合の実績に第一義をおき、各々の町村の事情に即した手段や方法がある程度は認められていたのである。
 とはいえ、莫大な部落有林を保有し、その利用を生活の支柱にしてきた三方郡耳村新庄区のような場合には、事態はきわめて深刻であった。四十三年、当局により再三にわたって部落有林の一半を村に提供するようせまられた同区は、「会合数回ニ及ヒタルモ、生活ノ基本ヲ失ヒテハ、忽チ口糊ノ途ニ窮スヘキニ付キ、山林保護上独立村タルニ若カス」と、ついに耳村からの分村独立を決議するにいたった。その後、「或ハ郡長ノ叱咤ニ驚キ、或ハ県官ノ威喝ニ服シ」、分村独立を訴える抵抗運動は沈滞を余儀なくされたが、部落有林統一を強いる当局の活動の方も一段落したようである(資11 一―二六五)。
 こうした新庄区の事例をみると、町村の結合を助けるはずの部落有財産の統合が、一つまちがえれば、かえって部落観念を奮い立たせるような矛盾をはらんだ施策であったことがわかる。表向きは円満な協定が成立していても、部落間の利害の調整や旧来からの利用権の処分方法をめぐり、いつ町村に不和が発生しても不思議でない状況にあったと思われる。
 また、部落有財産の統合とも関連して、「部落協議費」と呼ばれた区(大字)費の整理も勧奨された。この協議費には、道路・橋梁や用悪水から、耕地整理、害虫駆除、衛生、救助、青年会、警備、火葬場、神社仏閣、軍人援護にいたるまで、区民がより身近に利害を共有する施設や事業の経費がもられていた。その額は年々増加しつづけ、四十二年には県全体で四五万円を突破し、市町村費のほぼ半額にも達していたという(福井県『地方事務調査書』大正五年)。
 そこで県は、「如何ニ公費ノ節約ヲ図リ、租税ヲ軽減シ、以テ民力ヲ休養セント欲スルモ、裏面ニ於テ協議費負担ノ増加ノ為、毫モ其ノ効ナカラシメン」と、協議費の膨張が公費の財源を蚕食することを恐れ、郡長の指導監督のもとに協議費の節約、町村費への移管を勧めた(前掲『地方事務調査書』)。しかも、これまで区の重要な財源であった部落有財産を町村に提供させる以上は、協議費もまた町村費に移して、いくらかでも区民の負担を軽減すべきであった。
 しかし、実際に町村費に移管されたのは、役場や学校の公共施設の通路にかかる費用や用悪水費、区長報酬費などのごく一部にすぎなかった。それどころか、大正元年(一九一二)に水害、翌二年に干ばつに見舞われると、再び協議費の増徴を招く結果となった(前掲『地方事務調査書』)。町村費で支払われる公共事業はきわめて限られたものでしかなく、区民の共益を守るための経費は、依然として部落協議費に委ねられていたのである。



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